湖東三山巡り【其の弐(西明寺)】
昨日は「 湖東三山 」に就いて、滋賀県の「 湖東地域 」にある 西明寺・金剛輪寺・百済寺の三つの天台宗寺院の総称であることをお話ししました。
今日は「 湖東三山 」の内「 西明寺 」に就いて書きました。
「 西明寺 」の山号は「 龍應応山( りゅうおうざん )」で、西国薬師四十九霊場第32番札所で、本尊は薬師如来です。
寺伝によると 開山の「 三修上人 」は、修験道の霊山として知られる伊吹山の開山上人としても伝えられる半ば伝説化した行者です。 平安時代初期、「 承和元年( 834 )」、琵琶湖の西岸にいた三修は、湖の対岸の山に紫の雲のたなびくのを見て不思議に思い、神通力を用いて一気に水面を飛び越え、対岸に渡ると、今の「 西明寺 」のある山の中の池から紫の光がさしていました。 三修がその池に祈念すると、薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、十二神将が出現したという。
三修に帰依していた仁明天皇はこの話を聞くと、その地に勅願寺として寺を建立するように命じました。 三修はそれ等の像の姿を刻んで祀ったのが当寺の始まりだとされています。 承和3年( 836 )には「 仁明天皇 」により寺領が寄進され、諸堂が建築されました。 「 西明寺 」の寺号は 冒頭書きました紫の光が西の方へさしていたことに由来します。
やがて寺領は2千石、17の諸堂に僧坊3百を有する大寺院になっていた西明寺でしたが、「 元亀2年( 1571 )」、延暦寺の焼き討ちを行った織田信長は、近江国にある比叡山傘下の天台寺院をも焼き払うことを命じ、西明寺も信長の家臣である丹羽長秀と河尻秀隆によって焼き討ちの運命にありましたが、寺僧の機転で山門近くの房舎を激しく燃やして、全山焼失のように見せかけたため、山奥に位置する本堂や三重塔は焼失を免れました。 戦国時代には兵火のため荒れ果てていましたが、江戸時代中期に「 望月友閑( もちづきゆうかん )」によって再興されました。 「 日本100の古寺 」に選ばれた天台宗の古剰です。
「 境内の地図 」を参照して下さい。
【 惣門 と 境内 】
門を潜った境内。11月になると咲く 天然記念物の「 不断桜 」が咲きます。
【 蓬莱庭( 国指定名勝庭園 )】
江戸時代中期に、「 望月友閑( もちづきゆうかん )が「 小堀遠州 」の庭を手本にして作庭したといわれる「 池泉回遊式蓬莱庭園 」です。
山の斜面を上手に利用し、枯滝を中心に刈り込みや心字池を配し、池の中には折り鶴の鶴島や亀島がみごとな調和を見せています。 又、斜面に配された石組みは、薬師如来を表す 立石、日光・月光の三尊仏、十二神将など仏を表現しています。 園内には石屋弥陀六の作と伝えられる燈篭などがあり、国指定の名勝庭園となっています。 四季折々の変化が見られ秋には境内一円に1,000本を数える楓が紅葉します。
【 境内( 蓬莱庭 から 本堂 )】
【 本堂( 国宝 )】
入母屋造、檜皮葺きで、典型的な鎌倉時代前期の和様建築です。 釘を一本も使わない純和風建築です。 鎌倉の様式がよく保存され、国宝第一号に指定されています。 本堂内陣中央の厨子には秘仏本尊「 薬師如来( 重要文化財 )」、「 釈迦如来(重要文化財 )」、「 不動明王( 重文 )」等が安置され、なかでも頭に十二支の動物の顔を乗せた「 十二神将 」はユーモラスな親しみやすきが特徴で、自分の生まれ年の「 干支 」の十二神将に願いを託す参拝者も多く、「 えと寺 」としても有名です。
【 三重塔( 国宝 )】
本堂の右方向に建っており、檜皮葺きで鎌倉時代後期の建築とされています。 総高は20.1m。 逓減率が小さいことと、二重目・三重目の塔身の立ちが低いことが本塔の特色です。 相輪は 普通「 銅製 」であるが 本塔は「 鉄製 」です。 初層内部には大日如来像を安置し、心柱は初層天井裏から立っています。 初層内部は須弥壇と床面を除く全面に極彩色の絵画が描かれています。 絵画の主題は、内部の4本の柱( 四天柱 )には両界曼荼羅のうち金剛界曼荼羅成身会( じょうじんね )の三十二菩薩( 四波羅蜜菩薩、十六大菩薩、八供養菩薩、四摂菩薩 )を表し、四方の扉脇の壁面には計8面に法華経曼荼羅図( 法華経二十八品の説話の絵画 )」を表しています。 扉には八方天、須弥壇周りの長押には宝相華、牡丹、鳳凰などが描かれています。 この内柱4本と壁8枚は国宝建造物の一部であるとともに、「 絵画 」としても別途重要文化財に指定されています。 本堂と同じく釘を一本も使わない純和風建築で、国宝に指定されています。
【 二天門( 重要文化財 )】
桁行( 間口 )3間、梁間( 奥行 )間。 2入母屋造、杮(こけら)葺きの八脚門です。 部材の一つである巻斗に応永14年( 1407 )の墨書があり、同年の建立と考えられています。
以前にも書きましたが、「 間 」は、長さの単位では無く、柱間の数を表す建築用語です。
【 鐘楼 】
【 十一面観音 】
【 境内( 鐘楼から 惣門へ )】
【 二天門 】
惣門付近から見た「 二天門 」。
最後 動画です。
拝観した後、次の「 金剛輪寺 」に移動しました。
今日は「 湖東三山 」の内「 西明寺 」に就いて書きました。
「 西明寺 」の山号は「 龍應応山( りゅうおうざん )」で、西国薬師四十九霊場第32番札所で、本尊は薬師如来です。
寺伝によると 開山の「 三修上人 」は、修験道の霊山として知られる伊吹山の開山上人としても伝えられる半ば伝説化した行者です。 平安時代初期、「 承和元年( 834 )」、琵琶湖の西岸にいた三修は、湖の対岸の山に紫の雲のたなびくのを見て不思議に思い、神通力を用いて一気に水面を飛び越え、対岸に渡ると、今の「 西明寺 」のある山の中の池から紫の光がさしていました。 三修がその池に祈念すると、薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、十二神将が出現したという。
三修に帰依していた仁明天皇はこの話を聞くと、その地に勅願寺として寺を建立するように命じました。 三修はそれ等の像の姿を刻んで祀ったのが当寺の始まりだとされています。 承和3年( 836 )には「 仁明天皇 」により寺領が寄進され、諸堂が建築されました。 「 西明寺 」の寺号は 冒頭書きました紫の光が西の方へさしていたことに由来します。
やがて寺領は2千石、17の諸堂に僧坊3百を有する大寺院になっていた西明寺でしたが、「 元亀2年( 1571 )」、延暦寺の焼き討ちを行った織田信長は、近江国にある比叡山傘下の天台寺院をも焼き払うことを命じ、西明寺も信長の家臣である丹羽長秀と河尻秀隆によって焼き討ちの運命にありましたが、寺僧の機転で山門近くの房舎を激しく燃やして、全山焼失のように見せかけたため、山奥に位置する本堂や三重塔は焼失を免れました。 戦国時代には兵火のため荒れ果てていましたが、江戸時代中期に「 望月友閑( もちづきゆうかん )」によって再興されました。 「 日本100の古寺 」に選ばれた天台宗の古剰です。
「 境内の地図 」を参照して下さい。
【 惣門 と 境内 】
門を潜った境内。11月になると咲く 天然記念物の「 不断桜 」が咲きます。
【 蓬莱庭( 国指定名勝庭園 )】
江戸時代中期に、「 望月友閑( もちづきゆうかん )が「 小堀遠州 」の庭を手本にして作庭したといわれる「 池泉回遊式蓬莱庭園 」です。
山の斜面を上手に利用し、枯滝を中心に刈り込みや心字池を配し、池の中には折り鶴の鶴島や亀島がみごとな調和を見せています。 又、斜面に配された石組みは、薬師如来を表す 立石、日光・月光の三尊仏、十二神将など仏を表現しています。 園内には石屋弥陀六の作と伝えられる燈篭などがあり、国指定の名勝庭園となっています。 四季折々の変化が見られ秋には境内一円に1,000本を数える楓が紅葉します。
【 境内( 蓬莱庭 から 本堂 )】
【 本堂( 国宝 )】
入母屋造、檜皮葺きで、典型的な鎌倉時代前期の和様建築です。 釘を一本も使わない純和風建築です。 鎌倉の様式がよく保存され、国宝第一号に指定されています。 本堂内陣中央の厨子には秘仏本尊「 薬師如来( 重要文化財 )」、「 釈迦如来(重要文化財 )」、「 不動明王( 重文 )」等が安置され、なかでも頭に十二支の動物の顔を乗せた「 十二神将 」はユーモラスな親しみやすきが特徴で、自分の生まれ年の「 干支 」の十二神将に願いを託す参拝者も多く、「 えと寺 」としても有名です。
【 三重塔( 国宝 )】
本堂の右方向に建っており、檜皮葺きで鎌倉時代後期の建築とされています。 総高は20.1m。 逓減率が小さいことと、二重目・三重目の塔身の立ちが低いことが本塔の特色です。 相輪は 普通「 銅製 」であるが 本塔は「 鉄製 」です。 初層内部には大日如来像を安置し、心柱は初層天井裏から立っています。 初層内部は須弥壇と床面を除く全面に極彩色の絵画が描かれています。 絵画の主題は、内部の4本の柱( 四天柱 )には両界曼荼羅のうち金剛界曼荼羅成身会( じょうじんね )の三十二菩薩( 四波羅蜜菩薩、十六大菩薩、八供養菩薩、四摂菩薩 )を表し、四方の扉脇の壁面には計8面に法華経曼荼羅図( 法華経二十八品の説話の絵画 )」を表しています。 扉には八方天、須弥壇周りの長押には宝相華、牡丹、鳳凰などが描かれています。 この内柱4本と壁8枚は国宝建造物の一部であるとともに、「 絵画 」としても別途重要文化財に指定されています。 本堂と同じく釘を一本も使わない純和風建築で、国宝に指定されています。
【 二天門( 重要文化財 )】
桁行( 間口 )3間、梁間( 奥行 )間。 2入母屋造、杮(こけら)葺きの八脚門です。 部材の一つである巻斗に応永14年( 1407 )の墨書があり、同年の建立と考えられています。
以前にも書きましたが、「 間 」は、長さの単位では無く、柱間の数を表す建築用語です。
【 鐘楼 】
【 十一面観音 】
【 境内( 鐘楼から 惣門へ )】
【 二天門 】
惣門付近から見た「 二天門 」。
最後 動画です。
拝観した後、次の「 金剛輪寺 」に移動しました。
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