「 川崎市立 日本民家園 」を見学しました【 其の弐 】

今日から「 日本民家園 」を 昨日書きました「 エリア 」別にシリーズでアップします。

今日は【 本館と展示室 】【 その他建造物 】【 宿場 】に就いてです。
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「 GOOGLE 」で上空から捉えた「 日本民家園 」です。
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【 本館と展示室 】
本館で「 入園券 」を購入します。  65歳以上で証明書があれば 500円が300円 となります。  「 山ちゃん 」は先月「 車の免許 」を自主返納したので、理由を言って 穴の開いた免許証 を提示しました。  参考に パンフレットも戴きましたが、「 インターナショナルスクールの小学校低学年の生徒 」と近くの「 小学校の生徒 」と一緒になって仕舞いました。  鉢合わせしない様に 先へ進みました。
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同建物の奥に「 展示室 」があります。  日本の民家を建築の面から捉え、家の間取りや、形や 家の作り方に就いて紹介しています。  中央の大きな模型は、園内にある重要文化財「 旧北村家住宅 」の内部構造を再現しています。
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【 その他建造物 】
本館を出て なだらかな坂を上がると 目の前に「 宿場 」と書かれた柱が見えます。  その右手前に見えるのが「 旧原家住宅 」です。
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■ 旧原家住宅( 川崎市重要歴史記念物 )
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・概  要:木造建築技術が高度に磨かれた明治時代の豪壮な民家。
      原家は近世以来の旧家で、川崎市中原区小杉陣屋町に
      屋敷を構え、明治期には小杉村における有数の豪農
      でした。
・建築年代:明治44年( 1911 )4月16日上棟
・構造形式:木造2階建 入母屋造 桟瓦葺( 一部下屋 銅版葺 )
      風呂場・便所 木造平屋建 切妻造 桟瓦葺
・見  所
部屋によって壁土の色・天井の高さが異なります。  格式の高い部屋ほど天井が高くなります。  間仕切りの板戸は 欅の一枚板です。

旧原家は近世以来の旧家で、代々中原往還に面する小杉陣屋町に屋敷を構え、明治期には小杉村における有数の豪農でした。  明治44年( 1911 )には旧主屋を一新し、新時代の生活に対応した間取りを持つ2階建・入母屋造瓦葺の近代的な主屋を新築しました。  太い柱と差鴨居を多用した木太い建築で、2階の軒を出桁造りの二軒とし、寄棟造桟瓦葺の奥座敷・裏座敷の屋根の軒も出桁造りとする、明治期の建築に特有の骨格の太い豪気な気風を備えています。  木材は、外部の軒と1階見え掛かりの構造材及び造作材に欅を用い、2階に欅と檜・杉など良質の材料を豊富に使い、全てにわたり丁寧な仕上げを施している。特に、木材の継手と仕口の工法は伝統的な技術を継承・発展させたもので、その種類は多様で、しかも精緻であり、明治期の木造建築技術の水準の高さを示しています。  当住宅は骨格の太い木造2階建ての民家で、良質の木材を使い、精緻な工法を駆使して質の高い建築にまとめています。  又、棟札と居宅新築諸職人控・居宅上棟式諸事控により、建築年代及び大工棟梁の名が川崎市域の大工である市川登代次郎と判明しており、川崎市域に建築された代表的な明治期の近代和風建築として重要な遺構です。
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※ その他建造物の中には「 沖永良部の高倉 」と「船越( 歌舞伎 )
  の舞台 」が含まれていますが、別途報告します。

【 宿場 】
■ 旧鈴木家住宅( 神奈川県指定重要文化財 )
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・概  要:奥州( 福島県福島市松川町 )の旅籠( 馬宿 )
・建築年代:江戸時代後期
・構造形式:寄棟造( 背面妻入母屋造 )、茅葺、一部二階
・見  所
土間の 馬屋 には14頭の馬を繋ぐことが出来ました。  狭い間口を活かす為、入口は引き戸ではなく開き戸になっており、正面の板戸は上に収納する揚戸になっています。

鈴木家は屋号を「 赤浦屋 」と言い、奥州街道に面する宿場町「 八丁目宿本町( 福島県松川町 )」の馬宿でした。  当住宅の建立年代を示す資料は無く、また解体移築にあたってもその種の史料は発見出来無かったのですが、様式や技法から判断して、 江戸時代後期の建築と考えられています。  基本的には建立当初の姿に復原されていますが、街道側の立面に就いては、当住宅が宿場民家として最も整った姿を見せていた幕末期の間口3間の時の店構えと連子付板暖簾を持つ形式に復原されています。  馬宿は馬を連れた客を専門に泊める旅籠で、此所では馬の面倒の一切をみたから、土間内には大きなマヤ( 内厩 )が設けられていました。
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■ 旧井岡家住宅( 神奈川県指定重要文化財 )
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・概  要:狭い間口を活かした 奈良市下高畑町の商家
・建築年代:江戸時代中期
・構造形式:切妻造、桟瓦葺( 一部本瓦葺 )、一部厨子2階
・見  所:この家は囲炉裏が無く、竈( かまど )で生活をしていました。  中央の大竈は「 荒神( 火の神 )」を祭るもので、正月の餅つきの時以外は使われませんでした。  「 敷鴨居( しきがもい )」の溝には、開閉に必要な分だけを彫る「 突き止め 」という古い手法が用いられています。

井岡家は、中世から近世に掛けて発展した奈良の旧市街地である奈良町は、「 興福寺 」を中心にその南北及び西方に広がっていました。  下高畑町はその東南の外れに近く、新薬師寺に向かう途中にありました。  奈良町は近世以前、既に宅地の細分化が進んだらしく、1軒毎の町屋の敷地、特に間口はかなり狭くなっています。  その為 主屋は土間に沿って一列に部屋の並ぶ形式のものが圧倒的に多く見られます。  井岡家もこうした町屋の一例で、建立年代は 江戸時代中期と推定され、現存する奈良町の町屋としては最古の部類に属します。  井岡家の家業は、古くは油屋を営み、後に線香屋に転業したと伝えられています。  しかし、こうした職業の違いが家の造りの違いとなって現れることはほとんど無く、奈良町の町屋は数種類の基本的な形式のいずれかに分類されます。  旧井岡家の形式は奈良町屋の大半を占める一列型民家の、その典型と見られます。
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■ 旧佐地家の門・供待( ともまち、川崎市重要歴史記念物 )
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・概  要:お供が控えた武家屋敷の門( 愛知県名古屋市東区白壁 )
・建築年代:江戸時代後期
・構造形式:門  木造、棟門、切妻造、桟瓦葺。
      供待 木造、入母屋造、桟瓦葺。
      塀  木造、桟瓦葺。門左脇に潜り戸、門両脇に前方
         への袖壁付。
・見  所
屋敷の外は白い漆喰仕上げで 内側は漆喰を塗らず簡素な仕上げとなっています。  入口の小部屋は門番が使っていました。

建物は名古屋城の東及び南を防御する武家屋敷帯に属し、長塀筋と弓箭筋( ゆみやすじ )が交わる西南の角地に当たります。  この場所は、古地図によると江戸時代後期から 明治2年( 1869 )迄石川家の屋敷でした。  石川家は、寛永11年( 1634 )に没した元右衛門某以来、尾張藩士として知行高250石を相続し、幕末には御普請奉行として50石の加増を得ていました。  昭和5年頃に家屋敷が佐地家の所有となり、昭和44年 川崎市に寄贈されました。

建物は長塀筋に面し、門・供待・塀が一体となって武家屋敷の表構えを形成しています。  門は切妻造・桟瓦葺屋根を作っています。  冠木下の柱間は、方立状に角柱を入れて三間に分け、中央間に両内開き板扉を釣り、両脇間は腰下見板付の漆喰壁となっています。  供待は、入母屋造・桟瓦葺で、内部は土間・門番部屋・板の間から構成されています。  塀は、土台上に角柱をたて、腕木を差して前後に出桁を渡し、瓦葺き屋根を造っています。  門正面向かって右脇の塀には、板扉内開きの潜り戸を設けています。  門・供待・塀が一体となって尾張藩中級武家屋敷の表構えをよく伝えています。
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江戸時代の男性の平均身長は、約155cm、女性の平均身長が約143cm ですから、部屋に置かれている「 兜 」や「 籠 」は小さいのです。
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長屋を内側から撮った写真。
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■ 三澤家住宅( 神奈川県指定重要文化財 )
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・概  要:宿場で薬屋を営んだ板葺き屋根の家
      ( 長野県伊那市西伊那 )
・建築年代:江戸時代後期
・構造形式:切妻造、石置板葺、一部中二階
・見  所
栗の板を使った屋根は横木と石だけで押さえてあります。  展示してある看板は、薬屋と旅館を営んでいた時のものです。

旧三澤家住宅は、中山道信濃路の脇往還、伊那街道に面する宿場町「 伊那部宿( 長野県伊那市 )」にありました。  天保11年( 1840 )に焼失したという伝承があり、現主屋は様式や技法からみて、その直後の再建と見られます。  三澤家は屋号を「 槌屋( つちや )」といい、元禄時代( 1688 ~ 1704 )より代々組頭役で、一時名主も勤めた家柄です。  嘉永7年( 1854 )には年寄筋( 名主問屋筋 )に昇格、文久の頃( 1861 ~ 1864 )から薬種業を営み、明治に入って旅籠も兼業していました。
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この建物は「 免震構造 」となっており、説明によると工事費は約2億円だそうです。
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途中に「 道祖神 」、「 庚申塚 」、「 馬頭観音 」の 石塔 が見られました。
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・道祖神
路傍の神様です。  集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されています。

・庚申塚
中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことです。  庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多いです。  塚の上に石塔を建てることから「 庚申塚 」、塔の建立に際して供養を伴ったことから「 庚申供養塔 」とも呼ばれています。  庚申講とは、人間の体内にいるという「 三尸虫( さんしちゅう )」という虫が、庚申の日の夜、寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされていることから、それを避ける為だとされ「 庚申の日 」の夜は夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習となっています。  庚申塔の石形や彫られる仏像、神像、文字などはさまざまですが、申は干支で猿に例えられるから、「 見ざる、言わざる、聞かざる 」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多いのです。  仏教では、庚申の本尊は青面金剛とされる為、青面金剛が彫られることもあります。  神道では「 猿田彦神 」とされ、猿田彦神が彫られることもあります。  又、庚申塔には街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多く見られます。  更に、塞神として建立されることもあり、村の境目に建立されることもありました。

・馬頭観音
仏教における信仰対象である菩薩の一尊です。  観音菩薩の変化身( へんげしん )の一つで、所謂「 六観音 」の一尊にも数えられています。  観音としては珍しい忿怒の姿をとっています。

明日は エリア【 信越の村 】で、6棟を紹介します。

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