今宮神社 と あぶり餅

昨日「 建勲神社 」にお詣りしたことを書きました。  その目と鼻の距離に「 今宮神社 」があります。

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その参道を歩くと 右手に「 大徳寺 」の「 瓦塀 」が続きます。  廃棄瓦と土を交互に重ねその上に瓦屋根を乗せた技法で、風雨に強く数百年は持つとされる補強法らしいのです。  色々な種類の瓦が混じっていて実に面白く、正にアートの世界です。  此所に来ると 必ず写真に撮ります。
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この瓦塀は 以前 八幡の「 石清水八幡宮 」でも見掛けました。
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間もなく 今宮神社の 朱塗りの「 楼門 」が見えてきます。
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今宮神社は、別名「 玉の輿( たまのこし )神社 」とも言われています。 祭神は

   ・大己貴命( おおなむちのみこと )
   ・事代主命( ことしろぬしのみこと )
   ・奇稲田姫命( くしなだひめのみこと )です。

現在の今宮神社がある土地には、延暦13年( 794 )の平安遷都以前から疫神スサノオを祀る社があったとされています。  平安遷都後 芝々 疫病や災厄が起こり、神泉苑、上御霊神社、下御霊神社、八坂神社などで疫病を鎮めるための御霊会が営まれました。  

一条天皇の時代、正暦5年( 994 )にも大規模な疫病が発生した為、朝廷は「 神輿2基 」を造って船岡山に安置し、京中の老若男女は挙って神輿に供し船岡山に登り、綾傘に風流を施し囃子に合わせて唄い踊り、音楽奉納などを行った後、疫災を幣帛( 神に奉献する供物の総称で、布帛・衣服・紙・玉・酒・兵器 等があり、狭義には、 天皇・国家・地方官から神に奉献する供物をいう )に依り移らせて難波江( なにわえ、大阪の海岸 )に流しました。  民衆主導で行われたこの「 紫野御霊会 」が現在の「 今宮祭 」の起源とされ、京都の他の都市祭礼と同じく災厄忌避を祈願する御霊会として始まったのです。  

長保3年( 1001 )にも疫病が流行したことで、朝廷は疫神を船岡山から移し、疫神を祀った社に神殿・玉垣・神輿を造らせて「 今宮社 と名付けました。  そして、大己貴命、事代主命、奇稲田姫命の三柱の神が創祀されたのです。  これが現在の「 今宮神社 」の起源となります。  疫病が流行るたびに「 紫野御霊会 」が営まれ、やがて今宮社の祭礼( 今宮祭 )として定着し、毎年5月に開催される事となりました。

今宮神社に対する朝廷・民衆・武家からの崇敬は厚く、弘安7年( 1284 )には正一位の神階が与えられました。  その後、京の町が「 応仁・文明の乱( 1467 - 1478 )」等に巻き込まれ、神社は焼失し荒廃しました。  後 文禄2年( 1593 )に豊臣秀吉は今宮社の御旅所を再興し、神輿1基を寄進しました。

寛政7年( 1795 )には、西陣界隈の豊富な経済力を背景に御旅所に能舞台が落成し、秋季に能の公演を行っていましたが、織物産業の衰退に伴い、昭和45年代( 1970 ~ )を最後に途絶えることとなりました。   明治29年( 1896 )に本社殿を焼失しましたが、明治35年に再建されました。

話は前後しますが、冒頭 今宮神社は、別名「 玉の輿( たまのこし )神社 」と呼ばれていると書きました。  これは、西陣の八百屋に生まれた「 お玉 」が、徳川第3代将軍家光の側室となり、5代将軍綱吉の生母「 桂昌院 」として従一位となりました。
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このことが「 玉の輿 」という諺の由来になったとされています。  桂昌院は京都の寺社の復興に力を注ぎ、特に 今宮社に対する崇敬と西陣に対する愛郷の念が非常に強かったとされ、元禄7年( 1694 )には御牛車や鉾を寄進した他、祭事の整備や氏子区域の拡充、「 やすらい祭 」の復興など様々な施策を行い、社領として今宮神社に50石が与えています。

以上「 今宮神社 」の歴史に就いて書きました。  ここから境内を一周したので 写真と共に 紹介します。
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・舞殿
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・拝殿
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・本社
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・疫社
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・舞姫社
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・東門
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「 今宮神社 」に来たら 次は「 あぶり餅 」を戴くことでしょう。  

かつて「 あぶり餅 」の竹串は今宮神社に奉納された「 斎串( いぐし、斎 ( い ) み清められた串の意 )」で食べることで、病気・厄除けの御利益があるとされ、きな粉をまぶした親指大の餅を竹串に刺して、炭火であぶり、味噌のタレをぬった餅菓子です。  

今宮神社の「 東門 」を出た「 東参道 」には2軒の「 あぶり餅の店 」があります。  左手( 北側 )が「 一文字屋和輔( 一和 )」です。
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「 一和 」は、平安時代中期の長保2年( 1000 )、一条天皇の子が疫病を患った時、疫除けの願いを込めて「 あぶり餅 」を献上したのが始まりとされています。  又、「 応仁の乱 」では飢餓で苦しむ人々に振る舞い、千利休が茶菓子としたという逸話が残っています。

右手( 南側 )が「 本家 根元かざりや 」です。  「 かざりや 」は、江戸時代初めからで、創業400年を迎え、「 一子相伝 」で女性が代々受け継いでいます。
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両店は真向かいに位置しています。  向かい合う家の屋根に「 鐘馗さん 」を乗せた場合は、お互い睨み合うことがないよう目線をはずして据えたり、鐘馗さんの睨みを笑い飛ばすという意味で、お多福さんを載せることがあります。  鐘馗は中国玄宗皇帝の時代に鬼を食べたという伝説の神で、屋根の鬼瓦は災いが家に入るのを防ぐとされています。 

「 一和 」の廂( ひさし )には「 鐘馗さん 」が載っています。
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真向かいの「 かざりや 」の 廂には「 お多福さん 」が乗っていました。
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何時も「 一和 」で戴いていますが
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偶にはと思い 今回は「 かざりや 」の「 離れ 」で戴く事にしました。
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基本 どちらで食べても美味しいです。  ただ「 一和 」さんの方が少し甘かった様な気がしましたが。
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この後 バスで三条河原町に移動しました。

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