「建勲神社」にお詣りして来ました

昨年 11月末、「 信長公のお墓がある阿弥陀寺 」の事を書きました。「 武士の家計簿 」の著者で 歴史学者の「 磯田道史 」氏が解説していた番組「 所 JAPAN 」で

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織田信長公 」が「 本能寺の変( 天正10年( 1582 イチゴパンツ )6月2日 )」で、明智光秀に攻められ自害し、その遺体を「 誰かが持ち去った 」というテーマで放送されたのが「 切っ掛け 」で、友達の「 かっちゃん 」と一緒に「 阿弥陀寺 」を訪ねました。

【 織田信長 と 義元左文字 】
実は この放送で、もう一つ 取り上げられたテーマがありました。  それは「 信長の遺体と共に消えた 信長の愛刀( 名刀 ) 義元左文字( よしもとさもんじ )」です。  この名刀は、元は「 今川義元 」が持っていた物で、「 桶狭間の戦い 」で「 織田信長 」が義元を討ち取った時の「 ぶんどり刀 」なのです。  現在、重要文化財に指定されており、建勲神社所( たけいさおじんじゃ、一般には けんくんじんじゃ )蔵で、京都国立博物館が寄託( 特定物の保管を委託する契約 )されており一般公開はされていません。  又「 義元左文字 」の「 押型( 刀剣の、茎( なかご、鞘を外した箇所 )の銘や、刃紋などを書き写す技法 )」は、「 建勲神社 」にありますが、これも 一般公開はされていません。  テレビの放映の際は公開されましたが。

と言う事で、今回 友達の「 かっちゃん 」と 織田信長が祀られている「建勲神社 」を訪ねる事にしました。  以下「 船岡山 」、「 建勲神社 」、「 義元左文字 」に就いて纏めてみました。

【 建勲神社が鎮座する船岡山の概要 】
「 船岡山 」は、京都の 北西に位置し標高 112m、周囲 1.3Km、面積2万5千坪の山で、その東南側が「 建勲神社境内 」でうっそうとした森に被われています。  豊臣秀吉の頃より信長公の霊地として自然がそのまま残されています。
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船岡山は聖徳太子の文献にもその名が出ており、又、1200年程前、京都に都が定められた時、中国の陰陽五行思想、風水思想に基づいて、龍気みなぎる地形であり、大地の気がほとばしり、溢れ出る玄武の小山であると とせられ、船岡山の真南が大極殿、朱雀大路となっています。  
平安朝の時代、清少納言が枕草子で「 丘は船岡・・・ 」と讃えています。  戦国時代「 応仁の大乱( 1467~1477 )」の際には この船岡山が西軍の陣地となり、以来 船岡山 周辺一帯は西陣の名で今でも呼ばれています。  永正8年( 1511 )足利将軍家及び細川家の内紛の際にも、船岡山に陣地が置かれていました。  昭和6年( 1931 )に京都市風致地区に、昭和43年( 1968 )に国の史跡に、平成7年( 1995 )に京都府の「 京都の自然200選 」に指定されています。 

近くには「 大徳寺 」、「 今宮神社 」そして 何と言っても 大好きな 蕎麦屋「 かね井 」があります。
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【 建勲神社 由緒 】
今から 450年程前、世の中は「 群雄割拠( 多くの英雄や実力者達が各地で勢力を張り、互いに対立して覇を競い合っていること )」した戦乱の世の中でした。  永禄3年5月19日( 1560年6月12日 )、「 尾張国知多郡桶狭間 」で行われた「 織田信長 」と「 今川義元 」の合戦で、織田信長が少数の軍勢で本陣を奇襲し、今川義元を討ち取りました。  所謂「 桶狭間の戦い 」です。  しかし 天下統一の目前「 本能寺の変 」により 道半ばにして自害しました。  この「 信長 」の絵は、信長死後に宣教師によって描かれたとされる肖像画です。  よく見掛ける 掛け軸に描かれた 信長の画と良く似ています。
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豊臣秀吉は凶報を耳にして、所謂「 オウム返し 」にて、京都 山崎の一戦で 明智光秀を討って主君の怨を晴らし、大徳寺に於いて七日間の盛大な大法要を営み信長公の霊を慰めました。  秀吉は信長の後継者としてのアピールはこれにとどまらず、天正12年( 1584 )、信長の菩提寺として、信長が入京後初めて陣を敷いた記念すべき地である「 船岡山 」に大寺院を建てるべく、正親町天皇から「 天正寺 」の寺号まで賜わりましたが、寺の竣工は中途に終わりました。  諸説有る中で「 もう信長の後継者であることをアピールしなくてもよくなった 」のが有力説ですが・・・・。

明治2年( 1869 )年11月8日、「 日本が外国に侵略されなかったのは、天下統一を目指して日本を一つに纏めた信長のお陰 」だとして、信長を賛えるための「 健織田社( たけしおりたのやしろ )の創建が「 明治天皇 」により決定されました。  翌年、「 建勲 」の神号を賜り、信長の子孫で天童藩知事「 織田信敏 」の東京の邸内と織田家旧領地の山形県天童市に「 建勲社 」が造営されました。  

現在地の京都「 船岡山 」は、平安京の四神相応の玄武に位置し、完成しなかったとはいえ豊臣秀吉によって信長の廟所「 天正寺 」の境内地と定められた場所でしたので、その船岡山に神社を移すことになり、明治13年( 1880 )9月、社殿が竣工して東京より遷座しました。  翌年には「 織田信忠 」が合祀されました。  更に明治43年( 1910 )に社殿が現在の山頂部分に移築されました。  主祭神「 織田信長 」の業績に因み、国家安泰・難局突破・大願成就の神社とされています。

此所から 境内を歩いた順番に 写真で説明します。  訪れた時は まだ梅雨明けのしていない7月末。  汗を拭きながら 階段を上りました。
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・大鳥居
船岡山山麓、船岡東通りに建つ 高さ7.2mの立派な鳥居で、台湾 阿里山産の檜が用いられています。  平成20年( 2008 )に国の登録有形文化財に指定されました。  この大鳥居は京都府内で最大の白木の鳥居です。  春は桜の穴場の名所となっているそうです。
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・旧拝殿前の獅子
旧本殿跡。  現在の「 大平和敬神 」神石前の石段下にあります。  台座正面には向かって右側に「奉」、向かって左側に「 献 」 の字が刻まれている。
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・大平和敬神
昭和45年( 1970 )11月、修養団捧誠会より旧本殿跡に建立奉納された高さ6mの神石で、建勲神社宮司故「 松原宏整大人 」の天啓( 原義・神などの超自然物から与えられたお告げのこと。  様々な宗教の開祖は、天啓を受けてその宗教を始めたといわれている )による神語「 大平和敬神( だいへいわけいしん )」の五文字が、同会の故「 出居清太郎総裁 」が生前 唯一の直筆として書き上げたものだそうです。
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・階段を上がります( 全部で100段程度の石段です )
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・敦盛の歌碑
人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢まぼろしの如くなり ひとたび生を得て 滅せぬもののあるべきか・・・・。  能や歌舞伎の原型といわれる「 幸若舞( こうわかまい )」は、織田信長が特に好んだ芸能で、武士の悲哀を描いた題材が多く、なかでも「 敦盛 」は普段から口癖のように歌っていたと、「 信長公記( しんちょうこうき )」にも書かれています。
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・更に 拝殿に向かって 階段を上ります。
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・右手に「 社務所( 登録有形文化財 )」
入母屋造桟瓦葺で、玄関正面はこけら葺となっています。  中央東寄りの玄関土間を挟んで、東に旧宿直室、西に事務室、その西に旧宮司室があります。
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ここで「 御朱印 」が貰えます。
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鎌倉「 名月院 」で見た「 木瓜の実 」がありました。
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・左手に「 手水舎( 登録有形文化財 )」
桁行1間梁間1間、東西棟の切妻造檜皮葺で、礎石上に方柱を建て、内法貫で固め、舟肘木を介し、虹梁や桁を支持しています。「 豕扠首( いのこさす )」を組み、軒は一軒疎垂木となっています。  化粧屋根裏天井で、中央に石製水盤が置かれています。
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・拝殿( 登録有形文化財 )
本殿の東方に位置する吹放ちとなっています。  桁行2間梁間3間で、入母屋造妻入檜皮葺で、妻を木連格子となっています。
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毎年10月の「 船岡大祭 」には能が披露されるそうです。
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・神門( 祝詞舎、登録有形文化財 )
本殿の前方にあります。  桁行1間梁間1間で、前寄り柱筋に両開戸となっています。  切妻造妻入檜皮葺。  円柱で、柱上に舟肘木を置き、内法貫や虹梁、桁で固められています。  梁行中備に蟇股を置き、妻は豕扠首。  通常は立ち入れませんが、この神門の奥に本殿があります。
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・本殿( 登録有形文化財 )
一間社流造檜皮葺。  四周に組高欄付縁をまわし、正面に木階、浜床、浜縁が付いています。  身舎は円柱、向拝は面取方柱。  組物は舟肘木で、妻は豕叉首。二軒繁垂木とし、打越垂木を疎垂木となっています。  

建勲神社の5つの建造物が、平成20年「 国の登録有形文化財 」に一度に認定されたみたいです。  因みに「 山ちゃん 」の寄贈した実家は 同じく 国の「 登録有形文化財 」として3件( 門長屋、土塀・母屋 )が認定されています。
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・船岡山から見た 東山
建勲神社の境内からの眺めは素晴らしく、京都盆地の町並みや比叡山、大文字山などが良く見えます。  社務所の方によると春は多くの「 染井吉野 」が咲き、桜越しに見る 東山の光景が素晴らしいとの事でした。
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【 織田信長の愛刀「 義元左文字 」は桶狭間の戦利品 】
本太刀は、享保名物帳所蔵の名物「 宗三左文字 」です。 号の由楽は、元々三好政長( 入道名が半隠軒宗三 )が所鋳していたことから名付けられました。  後に、三好宗三から武田信虎( 信玄の父 )へ譲られ、信虎から娘婿の今川義元へ婚礼の引き出物として贈られました。  その為、本太刀は「 義元左文字 」とも呼ばれています。  持ち主の変遷から「 三好左文字 」、「 宗三左文字( そうさんさもんじ )」とも呼ばれることがあります。  

永録三年( 1560 )に義元が桶狭閤の戦いで討ち死にすると
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本太刀は戦利品として「 織田信長 」の手に渡り、「 信長公記 」によると幾度も試し斬りをさせて切れ味を確かめた後、信長は元々二尺六寸( 98.8cm )だった本太刀を二尺二寸一分( 69cm )に磨上させ、( なかご )の裏に「 織田尾張守信長 」と表に「 永禄三年( 桶狭間の合戦の日付 1560年 )五月十九日義元討捕刻彼所持刀( 義元を討ち取った時に持っていた刀 )」の金象嵌銘( きんぞうがんめい 、茎に金や銀などで銘文を嵌入したもの )がされています。  刀の截断能力などを記した試銘や大磨上無銘物を鑑定した際の極め銘が最も多く、磨上げ者や所持者の名前、あるいは号を記刻したものや神仏への祈念を記した例もある )を入れさせ、信長が本能寺の変で横難横死( おうなんおうし、予期しない災難や非業の死をとげること )する迄信長の手元にありました。  
「 本能寺の変 」の後は、松尾大社の神官の手を経て、信長の家臣であった豊臣秀吉の手に渡ったとされています。  秀吉の死去後は子の秀頼に伝わり、更に「 徳川家康 」に贈られました。  俗に三英傑( 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康 )の三者の手に渡ったことから、「 天下取りの刀 」とも呼ばれる様になりました。  これ以降、徳川将軍家の重宝として代々受け継がれていくこととなりました。  

しかし「 明暦の大火 」で被害に遭い、再刃( 刀が火災で焼けたり、研ぎ減って刃が無くなった時に再度焼き入れをし直すこと )されました。  

明治維新後、明治天皇は信長に建勲( たけいさお )の神号を贈り、信長を祀る神社として京都市北区の船岡山に建勲神社が創建されると、明治2年( 1869 )徳川宗家第16代当主「 徳川家達
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から信長所縁として本刀が同神社へ奉納されました。

・義元左文字と刻印
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・建勲神社にある 義元左文字 の押し型
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織田尾張守信長 」と刻印されている事に就いて、桶狭間の戦い「 永録三年( 1560 )」では まだ信長は「 尾張守( おわりのかみ )」になっておらず「 上総介( かずさのすけ )」で、正式には「 永禄九年( 1566 )7月17日付けの大覚寺義俊書状に始めて名乗ることから、後の秀吉が天下人となった時に 敢えて信長の名前を刻み「 後継者 」は自分だと世間に知らせたかったのでは無いか、といった疑問があります。  日本では「 三種の神器 」といったものが 後継者( 天下人 )で有るとの考えがありますからね。

又 松尾大社の神官の手を経て「 秀吉 」に渡ったという説に対しても、実際は「 本能寺の変 」で、明智光秀に襲われた際、その枕席に居た「 松尾神社の祠官の娘 」が、これを持ち逃げし、そして父のもとに隠していたが、文禄の時代( 1592 )になって、豊臣秀吉に差し出した という説も有ります。

何れにしても信長の遺体も含め 謎が多いのが事実です。

この後 今宮神社方面に行くべく、船岡山を歩きました。
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「 かっちゃん 」のお陰で、長い間 一度訪ねて見たいと思っていたことが実現出来ました。  感謝です。

【 豆知識 】
「 お参り 」と「 お詣り 」の違いに就いて。
・お参りは仏様に対して。 
 お寺やお墓に挨拶に行く場合は「 お参り 」と書きます。
・お詣りは神様に対して。
 
お参りは合掌することで、お詣りは柏手を打つという違いがあります。

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