上野歴史散歩【 不忍池と不忍弁天堂 】
毎回 冒頭添付している地図をご覧になったらお判りの通り「 不忍池 」は「 上野の山 」から西方向に位置します
【 不忍池 】
「 不忍池 」は、江戸時代 浮世絵に描かれるほどの「 蓮の名所 」でした少し 時間を遡りますと、かっては「 古石神井川 」が「 武蔵野台地 」の東端を割って海沿いの低地へと注ぎ出ていた開口部で、川の東岸に当たる「 上野台地( 上野のお山 )」や西岸に当たる「 本郷台地( 東京大学のある台地 )」そして南岸の「 神田山( 駿河台 )」等と比べると10m以上もの低い谷あいに位置していました。 縄文時代の頃にはこの辺り一帯は東京湾の入り江であり( 日比谷公園も昔は東京湾の入り江でした )後、海岸線の後退と共に取り残されて、紀元数世紀頃に池になったと考えられています。 その為この低地を「 忍ヶ丘( しのぶがおか )」と呼び、地名に因んで「 不忍池 」と言われていますが、、周囲に笹が多く茂っていたことから「 篠輪津( しのわず )」が転じて不忍になったという説や、ここで男女が忍んで逢っていたからという説もあります。
少し復習です。 以前の「 上野歴史散歩 」で、寛永2年( 1625年 )天海大僧正が、西の比叡山延暦寺に対応させ、この地に寛永寺を建立し「 不忍池 」を「 琵琶湖 」に見立てて作った 事をシリーズの冒頭でお話ししました。 当初の「 弁天島 」は文字通り船で「 渡る島 」でしたが、寛文12年( 1672年 )に弁天島と現在の上野公園との間に「 石橋が架けられ 」徒歩で渡れるようになりました明治時代の初期までの池の形は現在のものとはかなり異なっており、特に池の北側は今よりもかなり広く「 藍染川( 谷田川 )」という川も注いでいましたが明治17年(1884年 これも以前 書きました通り )競馬場の建設に伴い埋め立てが行われて現在の形が出来上がったのです。
「 蓮の名所 」だった「 不忍池 」も、戦時中に食糧難の為に、池を埋めたてて水田にしてしまいましたが、戦後「 不忍池 の 復旧作業 」が始まり、昭和30年代になってようやく復活。 以後、毎年花を咲かせ、都内でも「 蓮の名所 」として 多くの人に親しまれようになったのです。
【 不忍弁天堂 】
「 不忍池 」を琵琶湖に、竹生島(ちくぶしま)に因んで、池中に弁天島(中之島 )見立てたことを書きましたが、後に「 竹生島の宝厳寺 」の「 八臂大弁財天 」を勧請し「 弁天堂( 建立時期は不明 )を建立しました大正末期には参道の中程に華麗な竜宮門が建てられ、池の中の竜宮城を思わせましたが、「 東京大空襲 」で焼失してしまいました。 現在のものは昭和33年( 1958年 )に再建したものとなっています。 池の「 四方八方 」から見られるようにと「 八角形のお堂 」にしたといわれています。 「 八臂大弁財天 」は、長寿、福得の神として広く信仰を集め、音曲の神としても有名です。
【 補足 】
帰る、西郷産の銅像の前で「 スケッチ 」をされている方を見掛けました途中で「 蛙の噴水 」を見掛けましたが、カップルの待ち合わせ場所になっているらしいですこの後、「 上野「 藪蕎麦 」で蕎麦を食べるべく、老舗うなぎ屋「 伊豆榮( 一度食べましたが 結構高かった )」 の前を通り、テレビで時々紹介される「 十三や櫛店 」を通って 蕎麦屋の前に! あらら営業時間帯から外れており「 シャッター 」が降ろされていました残念だけれど 次の機会に! 築地で今年最初の「 エビ丼屋 」からスタートして、上野を早足で歩き回り、ヘトヘトになって夕方 上野から中目黒経由で! 疲れたので 座って帰りましたが、翌日は カメラを肩からぶら下げて歩いたので、多少 首と肩が痛かったです。
明日は「 輪王寺と黒門 」に就いてです
【 不忍池 】
「 不忍池 」は、江戸時代 浮世絵に描かれるほどの「 蓮の名所 」でした少し 時間を遡りますと、かっては「 古石神井川 」が「 武蔵野台地 」の東端を割って海沿いの低地へと注ぎ出ていた開口部で、川の東岸に当たる「 上野台地( 上野のお山 )」や西岸に当たる「 本郷台地( 東京大学のある台地 )」そして南岸の「 神田山( 駿河台 )」等と比べると10m以上もの低い谷あいに位置していました。 縄文時代の頃にはこの辺り一帯は東京湾の入り江であり( 日比谷公園も昔は東京湾の入り江でした )後、海岸線の後退と共に取り残されて、紀元数世紀頃に池になったと考えられています。 その為この低地を「 忍ヶ丘( しのぶがおか )」と呼び、地名に因んで「 不忍池 」と言われていますが、、周囲に笹が多く茂っていたことから「 篠輪津( しのわず )」が転じて不忍になったという説や、ここで男女が忍んで逢っていたからという説もあります。
少し復習です。 以前の「 上野歴史散歩 」で、寛永2年( 1625年 )天海大僧正が、西の比叡山延暦寺に対応させ、この地に寛永寺を建立し「 不忍池 」を「 琵琶湖 」に見立てて作った 事をシリーズの冒頭でお話ししました。 当初の「 弁天島 」は文字通り船で「 渡る島 」でしたが、寛文12年( 1672年 )に弁天島と現在の上野公園との間に「 石橋が架けられ 」徒歩で渡れるようになりました明治時代の初期までの池の形は現在のものとはかなり異なっており、特に池の北側は今よりもかなり広く「 藍染川( 谷田川 )」という川も注いでいましたが明治17年(1884年 これも以前 書きました通り )競馬場の建設に伴い埋め立てが行われて現在の形が出来上がったのです。
「 蓮の名所 」だった「 不忍池 」も、戦時中に食糧難の為に、池を埋めたてて水田にしてしまいましたが、戦後「 不忍池 の 復旧作業 」が始まり、昭和30年代になってようやく復活。 以後、毎年花を咲かせ、都内でも「 蓮の名所 」として 多くの人に親しまれようになったのです。
【 不忍弁天堂 】
「 不忍池 」を琵琶湖に、竹生島(ちくぶしま)に因んで、池中に弁天島(中之島 )見立てたことを書きましたが、後に「 竹生島の宝厳寺 」の「 八臂大弁財天 」を勧請し「 弁天堂( 建立時期は不明 )を建立しました大正末期には参道の中程に華麗な竜宮門が建てられ、池の中の竜宮城を思わせましたが、「 東京大空襲 」で焼失してしまいました。 現在のものは昭和33年( 1958年 )に再建したものとなっています。 池の「 四方八方 」から見られるようにと「 八角形のお堂 」にしたといわれています。 「 八臂大弁財天 」は、長寿、福得の神として広く信仰を集め、音曲の神としても有名です。
【 補足 】
帰る、西郷産の銅像の前で「 スケッチ 」をされている方を見掛けました途中で「 蛙の噴水 」を見掛けましたが、カップルの待ち合わせ場所になっているらしいですこの後、「 上野「 藪蕎麦 」で蕎麦を食べるべく、老舗うなぎ屋「 伊豆榮( 一度食べましたが 結構高かった )」 の前を通り、テレビで時々紹介される「 十三や櫛店 」を通って 蕎麦屋の前に! あらら営業時間帯から外れており「 シャッター 」が降ろされていました残念だけれど 次の機会に! 築地で今年最初の「 エビ丼屋 」からスタートして、上野を早足で歩き回り、ヘトヘトになって夕方 上野から中目黒経由で! 疲れたので 座って帰りましたが、翌日は カメラを肩からぶら下げて歩いたので、多少 首と肩が痛かったです。
明日は「 輪王寺と黒門 」に就いてです




























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