京都の花街「 上七軒 」
「 大国屋 」さんで、鎌餅を 買って、相国寺の境内から 同志社大学を経て今出川通りに。 次の「 上七軒 」迄、ひたすら 烏丸通り、堀川通り、そして 千本通り迄 歩きました。 A君も 散歩で 足腰を鍛えていますので 問題有りません。 私は カメラの重さに 首が痛くなってきましたが。
今出川通七本松から北野天満宮東門に至る、300m程の道の両側の地域が「 上七軒(かみしちけん)」と呼ばれている茶屋町で、京都で最も古い茶屋町であるといわれています。 「 京都府下遊郭由緒 」によりますと、「 上七軒 」は 往古より「 七軒茶屋 」と呼ばれ、足利氏武勝の頃、北野天満宮再建の再建時の残木を使って「 七軒の水茶屋 」を「 神社東門前 」に建てた事から「 上七軒 」の名称が起こったと言い伝えられています。 桃山時代、豊臣秀吉が北野で大茶会を開いた折に茶店側が団子を献上したところ、大いに誉められて以来、西陣の結びつきで花街としての繁栄を極めました。 その由来として「 団子の紋章 」が上七軒の紋章になっております。 地元の人達( 私もそうですが )は「 かみひちけん 」と読みます。
上七軒は西陣を主な顧客とし、他の花街に比べて地味で古風さが特徴といわれています。 大正初年で茶屋約30軒、芸妓約60人程でした。 昭和33年の売春防止法施行により、遊女はいなくなりましたが、芸者・芸妓などが今でも花街を引っ張っています。 今、茶屋は12~13軒程度で、狭い道に面して2階建てで背の高いお茶屋形式の町家が並びます。 賑やかさはありませんがが、静かで落ち着いた茶屋街を形成していています。 京都の茶屋特有の2階には簾が垂れ下がり、昼でも三味線の音色が聞こえてくる様な花街です。 祇園の様な華やかさはありませんが、かえって 静かな佇まいが情緒を醸し出しています。 路地に入りますと、芸者・芸妓さん達を見る事ができました。
ただ「 上七軒 」も時代で対応が異なり、京都の他の遊郭同様いろんな変遷を経て今に至っています。 戦前迄はお茶屋50軒、芸妓、舞妓あわせて60名で娼妓も3名いましたが、第二次世界大戦でお茶屋の大半が転廃業し、1945年頃に再開されました。 その頃はお茶屋35軒、芸妓90名位おりましたが、西陣織産業の衰退により減少し、芸妓数も20名以下に落ち込んで、歌舞会所属の舞踊学校で習っている優秀な生徒に対し組合が「 北野をどり 」の出演を要請していた時期もあり、その中から芸妓が生まれて来ています。 その後、お茶屋「 吉田家 」の娘である「 ひろ子 」が戦後で初の舞妓として店出しをしたが、後に襟替えをし、舞妓は一時期消滅しました。 しかし1981年、石川県出身の「 梅ぎく 」が久々の舞妓として店出し、多くの関係者に祝福を受け、彼女の後に次々と舞妓が誕生して来るのです。
またお茶屋さんの舞妓・芸妓さんらの花舞台として、昭和27年から4月に披露されている「 北野をどり 」、「 秋の寿会 」が、上七軒の歌舞連場で開催されます。 この舞台となる歌舞練場では「 をどり 」以外にも、夏場には ビアガーデンも開催され、夏の京都の風情を楽しむことが出来ます。 舞踊の流派は明治以前は篠塚流、その後は花柳流、茶道は西方尼寺で習っているそうです。
2001年、上七軒一帯は「 上京北野景観整備地区 」に指定され、2010年、明治30年代建築の歌舞練場が大規模改修工事を終え、4月中旬に公演されていた「 北野をどりを 」58年振りに繰り上げ、杮落とし公演として他の花街よりも早く上演されました。
路地に入ると 可愛い「 舞妓 」さんに出会いました。 叔父さんは遠慮がありません。 あの~ 写真撮らせて貰えませんか? と言いましたら「 よろしゅおます 」との返事。 撮った後「 昔の上七軒 」の建物の名残は有りませんかと、聞きましたら「 もう あらしまへん 」との返事でした。 「 おおきに 」と御礼を言った後、足早に 稽古場に 足を運んで行きました。
この後「 北野天満宮 」へと続きます。
今出川通七本松から北野天満宮東門に至る、300m程の道の両側の地域が「 上七軒(かみしちけん)」と呼ばれている茶屋町で、京都で最も古い茶屋町であるといわれています。 「 京都府下遊郭由緒 」によりますと、「 上七軒 」は 往古より「 七軒茶屋 」と呼ばれ、足利氏武勝の頃、北野天満宮再建の再建時の残木を使って「 七軒の水茶屋 」を「 神社東門前 」に建てた事から「 上七軒 」の名称が起こったと言い伝えられています。 桃山時代、豊臣秀吉が北野で大茶会を開いた折に茶店側が団子を献上したところ、大いに誉められて以来、西陣の結びつきで花街としての繁栄を極めました。 その由来として「 団子の紋章 」が上七軒の紋章になっております。 地元の人達( 私もそうですが )は「 かみひちけん 」と読みます。
上七軒は西陣を主な顧客とし、他の花街に比べて地味で古風さが特徴といわれています。 大正初年で茶屋約30軒、芸妓約60人程でした。 昭和33年の売春防止法施行により、遊女はいなくなりましたが、芸者・芸妓などが今でも花街を引っ張っています。 今、茶屋は12~13軒程度で、狭い道に面して2階建てで背の高いお茶屋形式の町家が並びます。 賑やかさはありませんがが、静かで落ち着いた茶屋街を形成していています。 京都の茶屋特有の2階には簾が垂れ下がり、昼でも三味線の音色が聞こえてくる様な花街です。 祇園の様な華やかさはありませんが、かえって 静かな佇まいが情緒を醸し出しています。 路地に入りますと、芸者・芸妓さん達を見る事ができました。
ただ「 上七軒 」も時代で対応が異なり、京都の他の遊郭同様いろんな変遷を経て今に至っています。 戦前迄はお茶屋50軒、芸妓、舞妓あわせて60名で娼妓も3名いましたが、第二次世界大戦でお茶屋の大半が転廃業し、1945年頃に再開されました。 その頃はお茶屋35軒、芸妓90名位おりましたが、西陣織産業の衰退により減少し、芸妓数も20名以下に落ち込んで、歌舞会所属の舞踊学校で習っている優秀な生徒に対し組合が「 北野をどり 」の出演を要請していた時期もあり、その中から芸妓が生まれて来ています。 その後、お茶屋「 吉田家 」の娘である「 ひろ子 」が戦後で初の舞妓として店出しをしたが、後に襟替えをし、舞妓は一時期消滅しました。 しかし1981年、石川県出身の「 梅ぎく 」が久々の舞妓として店出し、多くの関係者に祝福を受け、彼女の後に次々と舞妓が誕生して来るのです。
またお茶屋さんの舞妓・芸妓さんらの花舞台として、昭和27年から4月に披露されている「 北野をどり 」、「 秋の寿会 」が、上七軒の歌舞連場で開催されます。 この舞台となる歌舞練場では「 をどり 」以外にも、夏場には ビアガーデンも開催され、夏の京都の風情を楽しむことが出来ます。 舞踊の流派は明治以前は篠塚流、その後は花柳流、茶道は西方尼寺で習っているそうです。
2001年、上七軒一帯は「 上京北野景観整備地区 」に指定され、2010年、明治30年代建築の歌舞練場が大規模改修工事を終え、4月中旬に公演されていた「 北野をどりを 」58年振りに繰り上げ、杮落とし公演として他の花街よりも早く上演されました。
路地に入ると 可愛い「 舞妓 」さんに出会いました。 叔父さんは遠慮がありません。 あの~ 写真撮らせて貰えませんか? と言いましたら「 よろしゅおます 」との返事。 撮った後「 昔の上七軒 」の建物の名残は有りませんかと、聞きましたら「 もう あらしまへん 」との返事でした。 「 おおきに 」と御礼を言った後、足早に 稽古場に 足を運んで行きました。
この後「 北野天満宮 」へと続きます。

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