清水寺「 阿弖流爲 と母禮 」の碑

阿弖流爲( あてるい )と母禮( もれ )」、この人名を読める方は少ないと思いますし、清水寺とどの様な関係なのか 知っておられる方は少ないと思います。  「 山ちゃん 」がこの名前を知ったのは、平成20年( 2008 )8月、新橋演舞場で上演された 歌舞伎の「 阿弖流為 」の公演を観に行った時でした。   主人公「 蝦夷( えみし )」の英雄、阿弖流為に「 松本幸四郎( 当時は染五郎 )」、阿弖流為に友情を感じながらも蝦夷討伐へ向かう坂上田村麻呂役に「 中村勘九郎 」、蝦夷の女、立烏帽子に「 中村七之助 」が演じていました。  席が「 花道 」の直ぐ横だったのを覚えています。
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その「 阿弖流爲 」と部下の「 母禮 」の碑が、京都 清水寺の 境内にあるのを知っていましたが、今回 京都に帰った際、「 かっちゃん 」に頼んで スケジュールの中に組み込み一緒に行って来ました。  その前に「 阿弖流爲 」、「 坂上田村麻呂 」、「 征夷大将軍 」、「 清水寺 」等の言葉を中心に 以下に纏めました。  単に「 山ちゃん 」の興味から調べたので、長い文章となっている事は ご容赦願います。

【 歴史的に捉えた 阿弖流為 と母禮 】 
「 阿弖流為( 正式には 大墓公阿弖利爲( たまのきみあてりい )」は 今から約千二百年前、大和朝廷の時代( 8世紀 ~ 9世紀 )、「 胆沢地方( いさわ : 現在の岩手県奥州市付近 )」で生活していた 「 蝦夷( えみし、えぞ : 大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、鬼門の方向、即ち日本列島の東方( 現在の関東地方の一部と東北地方 )や、北方( 現在の北海道地方 )に住む人々を異族視した呼称 )」の一人です。   

当時「 水陸万頃【 すいりくばんけい : 水と土地( 陸 )が豊かな( 万頃 )さまをいう 】」
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と言われていたこの「 胆沢地方 )」と蝦夷を統治したい朝廷軍との間で戦がありました。  その中で「 阿弖流為 」は、胆沢地方( 岩手県奥州市 )で活動した蝦夷の族長として勇敢に 朝廷に立ち向かった人物です。   「 阿弖流為 」という名は「 続日本紀 【 しょくにほんき : 延暦8年( 789 )、巣伏村( すぶしむら )での戦いで朝廷軍に大勝した時のリーダーとして 】と、「 日本紀略( にほんきりょく : 長元9年 ( 1036 ) 年までの歴史書 )」で2回登場しています

「 日本紀略 」には「 延暦21年( 802 )」の戦いで 「 阿弖流為 」は 仲間の「 母禮( もれ、正式には 盤具公母禮( いわぐのきみもれ )」と共に、朝廷側の征夷大将軍だった「 坂上田村麻呂 」に降伏し都へと上ります。  「 田村麻呂 」は朝廷に二人を故郷へ返す様に進言しますが聞き入れられず、「 阿弖流為 と 母禮 」は「 河内国椙山( 現在の大阪府枚方市 )で処刑されたと記されています。  「 阿弖流為 」に就いての最期こそ解るものの、何時生まれたのか? どの様に育ち、どの様な人物だったのか? という詳しいこと就いては資料が無く、又 朝廷側が書いた資料も少ない為、解ら無いことが多々あります。   

【 阿弖流為の登場 】
8世紀後半、朝廷( 桓武天皇の時代 )は「 蝦夷遠征計画 」を胆沢地方に絞りました。   延暦7年( 788 )、「 征東大将軍 紀古佐美( きのこさみ )」に、胆沢遠征の命令が下りました。   遠征軍は5万余人で、戦闘経験者、戦功者、弓馬にたけた者達が選抜されました。  翌年上旬、遠征軍は多賀城( 宮城県多賀城市 )を出発し、胆沢へ進軍しました。  同月末には胆沢の南端の衣川に到着し3軍( 前・中・後 )に分けて布陣しました。  同6月、前軍が北上川右岸を、中・後軍は 四千の兵で同左岸をそれぞれ北上し「 阿弖流為 」の拠点である「 巣伏村( 奥州市水沢区東郊一帯 )」で合流するという作戦です。  これに対し、「 阿弖流為軍 」はゲリラ戦で応戦し、両岸を北上する政府の精鋭部隊を撃破しました、俗に言う「 胆沢の合戦 」です。  「 阿弖流為 」の名はこの戦闘過程の中「 延暦8年( 789 )」に始めて史上に登場します。   それは「 中・後軍 」各 二千人が北上川左岸を北上し、まさに「 賊帥夷 阿弖流為の居に至るころ( 続日本紀 )」という記事です。  この段階での蝦夷社会は、部族毎に戦士集団が形成されており、「 阿弖流為 」等は「 蝦夷戦士団 」を核に、胆沢の蝦夷連合軍を編成し、陽動作戦とゲリラ戦で応戦したのでした。  この後、政府は2度、胆沢遠征軍を派遣しますが、阿弖流爲軍は13年間にわたって、応戦しました。 

【 坂上田村麻呂の登場 】
延暦8年( 789 )の「 胆沢の合戦 」に大敗した朝廷は、翌9年「 第二回 胆沢遠征 」の準備を始めました。  この時の遠征軍の人事は「 征夷大将軍 大伴弟麻呂( おおとものおとまろ )」と「 副将軍 坂上田村麻呂 」でした。  ここで、坂上田村麻呂が「 蝦夷討伐 」に関わった事が初め史上に登場します。  延暦13年( 794 )「 将軍大伴弟麻呂 」は「 桓武天皇 」から「 節刀( せっとう : 日本の歴史において、天皇が出征する将軍または遣唐使の大使に持たせた、任命の印としての刀 )」を賜わり、胆沢遠征に出発しました。  今回の遠征軍の実戦部隊の総指揮官は「 坂上田村麻呂 」でした。  「 第二回 胆沢遠征 」で勝利出来ず、延暦15年( 796 )に「 第三回 胆沢遠征計画 」が始まり、数年掛けて、遠征の手はずを整えた「 坂上田村麻呂 」は延暦20年( 801 )、「 征夷大将軍 」として四万の兵を率いて胆沢に遠征しました。    遠征軍は 善意の半分以下に縮小されています。  と言うのは、これ迄の戦いで「 蝦夷軍 」は大半の戦士を失い、又荒廃による食糧難という事態を生み、疲弊の度を増していました。  「 坂上田村麻呂 」が編成した陣容は、既にこのような情況を察知した上でなされたのです。  この蝦夷征伐をした 将軍の肩書きは「 征夷大将軍 」です。  即ち 名前の通り蝦夷を征伐する将軍といった意味です。  その後 鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府と続きましたが、慶応3年( 1867 )徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止されました。
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【 蝦夷地方に対する都の人達のイメージ 】
下記の絵巻は 清水寺 に伝わる「 清水寺縁起絵巻( 重要文化財 : 永正 14年 ( 1517 ) は土佐光信筆の作。  東京国立博物館蔵 )」の一部です。  右手が「 征夷大将軍 坂上田村麻呂の朝廷軍 」、左手が迎え撃つ「 阿弖流爲 」を長とする蝦夷軍です。  拡大した絵を良く見ると蝦夷の兵士達は 明らかに 異国人として描かれています。  ましてや 頭に「 鬼の角 」の様なものを付けた人も描かれています。  やはりこの描かれた時代 都から見れば 鬼門の方角で 住んでいる人達を「 鬼 」と偶像化して見たのでしょうか。  絵を拡大して見て下さい。
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【 阿弖流為の降伏 】
第三回胆沢遠征に出発しましたが、この間の詳しい戦闘経過は不明で、ただ「 日本紀略 」に(9月27日、801年11月6日 )「 坂上田村麻呂 」が「 東賊を討伏 」と記されているだけで、戦果も不明です。   「 坂上田村麻呂 」は、翌10月「 節刀 」を「 桓武天皇 」に返上し、遠征結果を報告し、蝦夷の反乱を制圧したという評価が与えられました。  翌年正月「 田村麻呂 」は再度胆沢に下だり、胆沢城を造営し、併せて諸国から浪人四千人を胆沢城に移しました。  4月15日、胆沢城造営中の「 田村麻呂 」の所に、「 阿弖流為、母禮 」以下「 蝦夷戦士 五百余人 」が投降してきました。  巨大な胆沢城を目の前に、万策尽きたというのが実情でしょう。  7月、軍事首長2人を従えて「 田村麻呂 」は上京し、裁決は公卿達に委ねられました。  「 坂上田村麻呂 」は二人の助命を願い出、蝦夷を「 馴化( じゅんか : 生物が、異なった環境、特に気候の異なった土地に移された場合、その環境に適応するような体質に変わること )」をするには彼等の協力が必要なことを説きましたが、公卿達は国家に抵抗した「 反乱の首謀者 」という認識でしたので、胆沢へ赦免すれば、再び反乱は必定とみて捕捉の上、河内国椙山( 現 大阪府枚方市 )で斬刑に処しました。  時に延暦21年( 802 )8月13日( 旧暦 )のことです。  阿弖利爲の死後、胆沢や周辺地域で阿弖利爲と母禮が殺されたことに報復する弔い合戦などの反乱が発生した形跡は一切報告されていません。

弘仁5年12月1日( 815年1月14日 )、嵯峨天皇は「 既に皇化に馴れて、深く以て恥となす。宜しく早く告知して、夷俘と号すること莫かるべし。  今より以後、官位に随ひて称せ。若し官位無ければ、即ち姓名を称せ 」と蝦夷に対して夷俘と蔑称することを禁止する勅を発し、ここに征夷の時代が終焉したのです。

【 清水寺に阿弖流為の石碑がある理由 】
「 阿弖流為 と母禮 」が処刑される前の延暦17年( 798 )、征夷大将軍「 坂上田村麻呂 」は京都の音羽にある自らの邸宅に仏殿を造り本尊として祀りました。  この仏殿こそが 現在の「 清水寺 」の始まりで、「 坂上田村麻呂 」が「 清水寺 」の創建者なのです。  そんな「 坂上田村麻呂 」が創建した「 清水寺 」の境内の中に、平成6年( 1994年 )11月6日、平安遷都1200年を記念して「 北天の雄 阿弖流為 母禮之碑 」の除幕式と法要が執り行われました。
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「 顕彰碑 」は関西胆江同郷会、アテルイを顕彰する会、関西岩手県人会、京都岩手県人会によって建立されました。  毎年11月 第2土曜日になると石碑の前で顕彰と慰霊供養の法要が執り行われています。

長々と書きましたが、この様な歴史があったので、一度見て見たいと思ったからです。  「 清水寺 」と言えば 舞台・音羽の滝 が有名で、多くの人達は 気付かずに帰られます。
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一度 行く機会が有りましたら見て下さい。  場所は以下の通りです。
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【 碑の概要 】
総高2.35m( 台座含む )。  碑石は岩手県産御影石( 高さ1.85m、幅 1.65m )。
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・碑表面
東北地方の地図が彫り抜かれ、清水寺の「 森清範貫主 」の筆で「 北天の雄 阿弖流為母 禮之碑 」と刻まれています。
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・碑裏面
碑の説明文と建立者の名が刻まれています。  八世紀末頃まで東北・北上川流域を日高見国と云い、大和政府の勢力圏外にあり独自の生活と文化を形成していた。  政府は服従しない東北の民を蝦夷と呼び蔑視し、その経略のため数次にわたり巨万の征東軍を動員した。  胆沢(岩手県水沢市地方)の首領・大墓公阿弖流為は近隣の部族と連合し、この侵略を頑強に阻止した。なかでも七八九年の巣伏の戦いでは勇猛果敢に奮闘し政府軍に多大の損害を与えた。  八〇一年、坂上田村麻呂は四万の将兵を率いて戦地に赴き帰順策により胆沢に進出し胆沢城を築いた。  阿弖流為は十数年に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、同胞五百余名を従えて田村麻呂の軍門に降った。  田村麻呂将軍は阿弖流為と副将・磐具公母礼を伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく政府に助命嘆願した。  しかし公家達の反対により阿弖流為、母礼は八〇二年八月十三日に河内国で処刑された。  平安建都千二百年に当たり、田村麻呂の悲願空しく異郷の地で散った阿弖流為、母礼の顕彰碑を清水寺の格別の厚意により田村麻呂開基の同寺境内に建立す。  両雄をもつて冥さるべし。  一九九四年十一月吉祥日
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・顕彰碑文面
八世紀末頃、日高見国胆沢(岩手県水沢市地方)を本拠とした蝦夷の首領・阿弖流為(アテルイ)は中央政府の数次に亘る侵略に対し十数年に及ぶ奮闘も空しく、遂に坂上田村麻呂の軍門に降り同胞の母礼(モレ)と共に京都に連行された。  田村麻呂は敵将ながらアテルイ・モレの武勇、人物を惜しみ政府に助命嘆願したが容れられず、アテルイ・モレ両雄は八〇二年河内国で処刑された。  この史実に鑑み、田村麻呂開基の清水寺境内にアテルイ・モレ顕彰碑を建立す。  と刻まれています。
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色々 資料を見ましたが、二人の墓に就いての記述は見つかりませんでした。

この後 京都駅に向かいました。
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それにしても 観光客の少なかったことに 驚きです。
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お昼の量が 多かったのか、二人共 余り お腹も空かず、京都駅の「 飲み屋 」で、簡単にお酒を飲んで 分かれました。  何時も 付き合ってくれる 友達「 かっちゃん 」に感謝です。
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