信長公のお墓がある「阿弥陀寺」

随分と前の事ですが。  京都の老舗和菓子屋で有名な「 大黒屋 」さんで、名物「 鎌餅 」を買いました。
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その後 寺町通りに出た所に「 阿弥陀寺( この寺は、元は 光秀とゆかりの深い近江坂本に創建されたお寺で、その後 信長に帰依され京都に移転していました )」が有り、山門近くの碑で、「 織田信長公のお墓 」が有ることを知りました。

最近 テレビで「 武士の家計簿 」の著者で 歴史学者の「 磯田道史 」氏が解説していた番組( 所 JAPAN )で、「 織田信長公 」が「 本能寺の変( 天正十年、イチゴパンツ 1582年6月2日 )」で、明智光秀に 攻められ自害し、その遺体を「 誰かが持ち去った 」言うテーマで放送され興味深く拝見しました。
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その中に「 本能寺跡の碑 」、「 建勲神社( たけいさおじんじゃ、通称 けんくんじんじゃ )」と「 阿弥陀寺 」が紹介されていました。

今回「 時代祭 」を見学した後、「 阿弥陀寺 」が近かったので「 かっちゃん 」と訪ねました。 

以下 織田信長公 」の「 本能寺の変以降 」に就いて纏めてみました。

「 織田信長公 」には、「 織田信広 」という兄がいましたが、側室の子供だったので織田家の跡継ぎにはなれませんでした。  しかし「 信長 」はこの兄に敬意を払い、織田家の重臣として優遇していました。  お寺の伝承、「 信長公阿弥陀寺由緒之記録( 約10m程の巻物 )
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によると 天文11年( 1542 )信広が「 小豆坂の戦い( 織田と今川との戦い )の際、一人の妊婦が訪ねてきました。  この妊婦は、父 織田信秀の側室の一人で 子供( 男子 )を産んだ後亡くなりました。  この子供は信長と一緒に 育てられましたが、後 仏門に入り19歳の若さで 阿弥陀寺 の僧侶「 清玉上人( 開山 )」となりました。  信広は、信長の天下取りの途上「 長島一向一揆 」の戦いで戦死して仕舞いました。  現在お墓は「 信長公 」の墓の後ろにあります。  

※「 信長公阿弥陀寺由緒之記録 」は 国立国会図書館 の「 デジダルコレクション 」で見ることが出来ます。
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日本の歴史の中で、何故 家臣の明智光秀が 何故謀反を起こしたのかと諸説論議される中、同じく不思議なのは「 信長の遺体の行方 」です。  一般的には「 信長公 」は「 森蘭丸 」等の家来と共に、明智軍と応戦したものの、途中 燃え盛る建物の中に入り自害した。  という事で 話で終わっています。
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お寺に伝承されている「 信長公阿弥陀寺由緒之記録 」によると、当日( 6月2日 )八つ時( 午前3時頃 )、清玉上人は 本能寺が火災になっている事を知ります。( 阿弥陀寺は本能寺から見て 北西の方向に約2Km 程度 )  信長公の安否を確認すべく、慌てて、駆け付けました。  その頃「 明智光秀 」の軍 約1万3千人は 躍起になって「 信長の遺骸 」を捜していました。  寺の垣根から 寺の境内に入ると、寺の僧侶 数名が「 外塔婆 」を燃やしていました。  上人が聞くと「 信長公の遺骸が敵の手に渡らぬ様に葬をしている 」とのこと。  「 清玉上人 」は、葬儀と墓所は私共で預かりますと言って、火葬が終わった後の骨を阿弥陀寺へ持ち帰ったのです。
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同じくして 信長42歳の時に 家督を譲った 嫡男「 織田信忠 」は、当時別のお寺にいたので光秀の手が回っておらず逃げられたのですが、父の救出が不可能と知ると、二条御所( 現在の二条城 )に向かい、逗留していた親王一家と女性を逃がした後、明智軍と戦うも「 多勢に無勢 」。  自らも剣を取って戦ったものの、あえなく自害してしまいました。

「 清玉上人 」は、織田家に恩義を感じていたので、「 信忠 」の遺骨と、本能寺の変で亡くなった他の武士達( 森成利( 蘭丸 )、森長隆( 坊丸 )、森長氏( 力丸 )の兄弟、福富秀勝、津田権之佐信貞、津田九郎次郎、赤座七郎右衛門、団平八郎、湯浅甚介、櫻木傳七郎、青柳勘太郎、桑原吉三 等 )一緒に「 阿弥陀寺 」で弔らいました。

最後、光秀は 信長の遺骸を見つけ出せず、 後に駆け付けた「 豊臣秀吉 」と 山崎の戦いで惨敗を喫し、その後 京都 南の小栗須 で逃げる途中に殺されました。

「 信長公 」亡き後、その後継を狙っていた「 羽柴秀吉 」は、「 阿弥陀寺 」に信長・信忠父子の遺骨がある話を聞きつけ、「 信長公 」一周忌を自分が取り仕切ることにより、後継者争いで 天下に立とうと目論んだだ秀吉は、清玉上人に圧力をかけて、遺骨を引き渡すように命令しましたが、清玉上人 」は、「 信長公の葬儀は自分達がささやかながらやりました。  改めて信長公の葬儀を行う必要はありません 」と秀吉の申し出を断ります。  激怒した 秀吉でしたが諦め、大徳寺で「 追善供養 」を行い「 信長公 」の木像を造って棺に納めることで葬儀を執り行なったそうです。  

「 清玉上人 」は本能寺の変から3年後に亡くなりました。  天下人になった「 豊臣秀吉 」の命により、「 阿弥陀寺 」は、寺領の大半を没収されて仕舞い、更に 都市計画の名目で寺町の現在地に強制的に移転させられ現在に至っています。  秀吉の嫌がらせですね。

話は 前後しますが、「 阿弥陀寺 」は、天文24年( 1555 )、玉誉清玉が「 近江の国 坂本 」に創建したのがこの寺の始まりとされています。  その後「 清玉上人 」が「 信長公 」の帰依を得、上京今出川大宮に移転しました。  延宝3年( 1675 )大火あって、信長公の木像、武具・道具類などの遺物が焼失してしまいました。  宗派は、浄土宗で、本尊は「 阿弥陀如来坐像 」です。
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大正6年( 1917 )に行われた宮内庁の調査で、この「 阿弥陀寺 」が 織田信長公 」の廟所であると認められました。

「 阿弥陀寺 」の門を潜って境内に入り、お墓を捜していたら、タイミング良く「 寺世話 」の方に会い、左奥で、右側が「 織田信長 」、左側が信長の息子「 信忠 」の墓で、 その周りに 家臣の人達のお墓がありますよ と。  更に 右奥には「 清玉上人 」のお墓もありますので、お参りして下さいと。  以下「 阿弥陀寺の門 」、「 境内 」、「 お墓 」の順番に 写真を添付しました。

・阿弥陀寺の門 と その周辺
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・梵鐘
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・本堂
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・境内
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・信長公( 右 )と信忠の墓
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・信長公の兄 信広 の墓
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・ご家来衆の墓
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・清玉上人の墓
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以前「 源頼朝 」のお墓にお参りしましたが、「 信長公 」のお墓も同様、一時期は 天下をとった 人の割には お墓は質素です。

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