華王院本堂(三十三間堂)に行きました

「 三十三間堂 」の正式名称は「 蓮華王院本堂( れんげおういんほんどう )」と言い、元「 後白河上皇 」が自身の離宮内に創建した仏堂で、天台宗妙法院の「 境外仏堂 」です。  本尊は「 千手観音( 国宝 )」で、蓮華王院の名称は千手観音の別称「 蓮華王 」に由来しています。
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「 三十三間堂 」は山ちゃんの子供がまだ幼稚園に行く前、お盆に帰省した時、父と一緒に行ったことがあります。  当時はお堂の中へは土足で入れましたし、見学コースも現在と異なり 反時計回りで 確か写真撮影も可能だったと思います。  昨年春のニュースで 、堂内にある 1001体の千手観音立像等が国宝になった事をニュースで知り 再度訪ねたいと思っていました。  今回 同期会出席の良い機会を得たので、「 かっちゃん 」と待ち合わせし行って来ました。

「 蓮華王院本堂 」は、上皇が「 平清盛 」に建立の資材協力を命じ、「 長寛2年12月( 1165 )に完成しました。  創建当時は五重塔なども含めた大寺院でしたが「 建長元年( 1249 )の火災で焼失、「 文永3年( 1266 )に「 後嵯峨上皇 」により本堂のみが再建されました。  これが現在の「 三十三間堂 」です。  豊臣秀吉の時代、東山大仏( 方広寺 )造営により、三十三間堂もその境内に含まれ、周囲の土塀や門などが整備されました。  その一部 の土塀( 太閤塀 重要文化財 )等は 今でも見ることが出来ます。
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【 国宝三十三間堂( 国宝 )の建築 】
洛中にある建物の中では大報恩寺( 通称 千本釈迦堂 )の本堂に次いで古く、洛中で鎌倉時代まで遡る建物はこの2棟のみです。  入母屋造、本瓦葺き、桁行35間( 118.2m )、梁間5間( 幅 16.4m )の長大な木造建築です。  内陣の柱の間数が観音ゆかりの三十三であることから、「 三十三問堂 」と通称されました。  和様単層本瓦葺きの入母屋造で、正面東側の三十五の柱問は全て幣軸板扉で、それを開ければ明障子( あかりしょうじ )で、中央の七間分は向拝( ごはい )です。  南北と西側とは、殆ど板壁と連子窓( れんじまど )、そして八箇所に板扉の出入口があり、周囲には広縁がめぐらされています。  今では堂の内外に彩色は見られませんが、昭和5年( 1930 )の修理の際、虹梁下面に貼付された装飾鏡の座を外した下から極彩色の文様が現れ、建立当初の堂は彩色で覆われていたことが判明しました。  ここで言う「 間( けん )」は長さの単位では無く、社寺建築の柱間の数を表す建築用語です。
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【 千手観音坐像( 国宝 )】
本堂の中央に、左右の千体観音立像に囲まれて安置されているのが、「 千手観音坐像 」です。  像高は3.35m、桧材の寄木内到造りで、玉眼( 水晶 )を嵌入( かんにゅう )し、全身を漆箔に施されています。  四二手をもって「 千手 」を表す通例の像形で、台座は八角七重の蓮華座、光背は舟形に雲形や宝樹形を透彫り、更に観音の「 三十三変化身( へんげしん )」を配した精巧なものです。  中尊( ちゅうそん:一群の仏像のうち中心をなすもののこと )の造立に就いては像内腹部仕切板 及び 台座心棒の二つの銘記から、建長3年( 1251 )7月白河法勝寺で着手、同6年正月23日に完成して当院に送られたことが判明しています。  像の作者「 大仏師湛慶 」は、鎌倉中期を代表する造仏師で、父運慶の作風に一段と洗練の度を加えた気品に溢れた物で、この中尊を造った時 既に82歳と高齢でした。  中尊は、単に湛慶の傑作であるばかりではなく、鎌倉彫刻の最後を飾る本格的な作品として美術史的にも重要な意味をもつものと言えます。
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【 千体千手観音像( 重要文化財 )】
「 造寺造仏 」は仏教信仰の証として、その功徳が大であると多くの仏典に説かれています。  これによりインド・中国に於いても、時々の為政者は「 造寺造仏 」を行いました。  日本では平安後期、この風潮が高揚し、各上皇は、国家的規模でそれを行いました。  「 後白河上皇 」の「 蓮華王院 」の造建は、生涯最大の事業だったといえます。  堂内の千体の観音像は、正式には「 十一面千手千眼観世音菩薩 」と呼ばれ、観音が困苦の衆生を救うために「 十一面と千手千眼 」の姿を具備されたものとされています。  ここに言う「 千 」とは、数学的な基数 一・十・百の「 千 」では無く「 無量・無数 」という数量的無限( ∞ )を示しており、万人を観察し、万象を見透かし、もろ手を差し伸べ、万策を講じて人を救護する慈悲の象徴といえます。
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なぜ「 千体 」もあるかというと、千手観音には40本の手があり、1本に25の救いが働いていると言われています。  つまり40×25 で千の救いがあるのです。  千体の中で124体は創建時代の平安期の尊像、その他は鎌倉期に造られその約500体には作者名が残されているそうです。  各尊の頭上に表わす「 十一面 」は、現在の一地点より「 八方・上下 の十方( 全方向 )」を見、必要に応じて空間的無限に変現することを示したものです。  「 抜苦与楽( ばっくらく )」の仏心を象徴する中尊が、その頭頂から無限に変化身を現わして、終には時空をこえて堂内に満ちみち、更に堂外にもこぼれ出て、宇宙の万処にまで拡散して行くことを具現してみせたのが千体観音像なのです。  

【 風神・雷神像( 国宝) と二十八部衆 】
「 風神・雷神像 」と「 二十八部衆 」は、元来インドの天神・鬼神でヒンドゥー教やバラモン教の神々などが仏教に導入され、千手観音に従って護法にあたるとされ、これに「 風・雷神 」を加えた合計30体の等身大( ほぼ160cm前後 )の諸尊が観音群像の前列に安置されています。  内 四天王像は中尊の四方にあります。  二十八部衆の尊名や像形は、経説により違いがありますが、当院のものは一具として揃っている稀な作例です。  いずれも玉眼を入れた寄木造りの彩色像で、ここでしか見られない作例もあり、各々が迫真的な表情と姿態を見せる鎌倉彫刻の傑作です。  記録によれば、建長の火災時には二十八部衆は、罹災を免れたと言われており、その直後の、折しも三十三問堂の修理造仏に当たっていた大仏師湛慶の作であろうといわれています。  

檜の寄せ木造りで、玉眼を用いた彩色像でその姿態は鎌倉時代の彫刻の傑作とされています。  特に「 風神雷神像 」は共にインド最古の「 リグ・ヴェーダ に登場する神で、名前の通り自然現象を神格化した神々です。  仏教では懲らしめ 善を勧める神と信じられています。
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二十八部衆像の一部です。

・金比羅王像( こんぴらおうぞう )と緊那羅王像( きんならおうぞう ) 
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・東方天像( とうほうてんぞう )
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・毘楼博叉像( びるばくしゃ )
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・迦楼羅王像( かるらおうぞう )
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・散脂大将像( さんじたいしょうぞう )
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・密遮金剛像( みっしゃこんごうぞう )
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・那羅延堅固像( ならえんげんごぞう )
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【 夜泣醍・手水舎 】
本堂創建の翌年、堂僧が夢のお告げにより発見したという霊泉で「 古今著聞集 」には「 いつも冷たく美味く汲んでも尽きず、汲まぬ時は余らざる不思議な泉 」と記されています。  夜のしじまに湧き出す音が「 すすり泣き 」に似ることから「 夜泣き醍 」と言われるようになり、いつからか地蔵尊が奉られ、その「 前掛け 」を持ち帰り子供の枕に敷けば「 夜泣き 」が治癒するとの信仰が生まれました。  平成の時代になって「 手水舎 」も再建されました。  写真を撮っていたら「 スリランカ 」から来た 観光御一行様、不思議そうに「 赤の涎掛け 」を眺めていました。
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【 通し矢 】
「 安土桃山時代 」に始まったといわれており、江戸時代 大流行しました。  本堂西軒下( 長さ約121m )で矢を射る競技で、縁の北端に的を置き、縁の南端から軒天井に当たらぬよう矢を射抜くのです。  「 通し矢 」の名はこの「 軒下を通す 」ということから来ています。  強弓を強く射なければ到底軒下を射通すことが出来ず、弓術家の名誉となりました。
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特に尾張・紀州両雄藩の「 天下一争奪戦 」は民衆の評判となり、後世の物語や映画のモチーフとなりました。  最高記録は貞享3年( 1686 )4月27日、24時間、矢を射続ける「 大矢数( おやかず )」という種目に出場した紀州の「 和佐大八郎 」という18才の青年は一昼夜で13、053本 の弓を放ち 内 8、133本を通しました。  1時間に約544本、1分間に約9本を発射するという速さとなります。  通し矢の優勝者は、矢数・姓名等記した額をお堂に掛けて賞賛される習わしがあり、今日でも堂内には多数の額が残されています。  盛んだった通し矢も19世紀末には中絶して仕舞いました。  下は江戸時代に描かれた「 通し矢 」の錦絵です。
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その伝統に因み、現在は「 楊枝のお加持 大法要 」と同日( 1月中旬 )に、本堂西側の射程60mの特設射場で矢を射る「三十三間堂大的全国大会 」が行われます。  弓道をたしなむ新成人参加者が振袖袴姿で行射する場面は、時としてニュース番組等で取り上げられます。
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冒頭「 豊臣秀吉 」との関連を書きましたが、「 南大門( 重要文化財 )」は、秀吉によって建てられ、「 秀頼 」により修復されました。
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当初は「 西大門 」もありましたが、明治28年( 1895 )年の京都国立博物館の建設の関係で、門は現在東寺の「 南大門( 重要文化財 )」として移築されました。
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【 入り口 下足棚 】
拝観料を払うと、つい最近 建てられたと思われる 入り口があります。  修学旅行生が脱いだと思える靴が 整然と並べられていました。  日本人らしくって写真に収めました。
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「 三十三間堂 」の前の「 京都国立博物館 」です。
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※ 観音像等は撮影禁止です。  売店で購入した 写真集 をコピーしました。

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