奈良 斑鳩の里「法隆寺」を訪ねました【其の弐】
「 其の弐 」は「 西院伽藍 」からのスタートです。
『 西院伽藍 』
南に位置する「 中門 」から左右から伸びた「 凸型の回廊 」は、北側に建つ「 大講堂 」の左右に接して終わっています。 この 廻廊に向かって右に金堂、左に五重塔を配し、東に鐘楼、西に経蔵があります。 これ等の伽藍を「 西院伽藍 」と呼んでいます。 金堂、五重塔、中門、回廊は「 聖徳太子在世時 」のものでは無く7世紀後半頃に再建された物です。 金堂・五重塔・中門の建築様式は、「 組物( 軒の出を支える建築部材 )に雲斗、雲肘木と呼ばれる曲線を多用した部材を用いること、建物四隅の組物が斜め( 45度方向 )にのみ出ること、卍くずしの高欄(手すり)、それを支える「 人 」字形の束( つか )などが特徴です。 これ等は法隆寺 金堂・五重塔・中門、法起寺三重塔、法輪寺三重塔( 焼失 )のみに見られる様式で「 飛鳥様式 」と呼ばれています。
【 中門( 国宝 )】
入母屋造の二重門です。 正面は四間二戸と入り口が2箇所、側面が三間あるのが特徴です。 柱には「 檜材 」が使われています。 エンタシス風の柱や、上層部には 金堂と同じく「 卍崩しと人字型の割束を配しているのが特徴です。 門は現在、出入り口としては使用されておらず、拝観者は回廊の西南隅から入ります。
3箇所( 西院伽藍、東院伽藍、、大宝蔵院 )が見られる「 共通拝観券 」を購入します。
・金剛力士像
門の左右には、日本で最古の守護神である「 開口の阿形( あぎょう:塑像 )像と、口を結んだ吽形( うんぎょう )の金剛力士立像 」が安置されています。 日本最古( 8世紀初頃 )の仁王像として貴重なものですが、風雨にさらされ補修が甚だしく、吽形( うんぎょう )像の体部は木造の後補に代わっています。 ここの金剛力士像には「 金網 」が掛かっていません。
【 東西の廻廊( 国宝 )】
廻廊は 東に位置する「 鐘楼 」、中央に位置する「 大講堂 」、西側に位置する「 経蔵 」に繋がり、五重塔と金堂を囲む形となっています。 これが法隆寺の「 伽藍配置 」となっています。 東回廊の長さは約76m、西回廊の長さは約72mで、長さが異なるのには、金堂と塔との釣り合いを考えている為です。
先程、柱が エンタシス風( ギリシャ パルテノンの宮殿に柱に代表される 上の部分と下の部分を徐々に細くするデザインの柱で、柱を下から見上げると、まっすぐに安定しているように見える )と書きましたが、遠くのギリシャからその技法が入って来たとすると、その途中の国でも見られても良いはずですが、この柱の技法を用いた建築物が途中の国では見られ無いことから、日本独自の作風と考えられています。
【 経蔵( 国宝 )】
仏教の経典( 一切経と言う大乗仏教の大蔵経 )を収める書庫でした。 現在は、平安時代造立の百済の学僧「 観勒( かんろく )僧正像 」が安置されています。 観勒は、天文や地理学を日本に伝えた百済の学僧です。
【 鐘楼( 国宝 )】
この建物は 延長3年( 925 )に、大講堂と共に 落雷で焼失し、その後、対称的な位置に建つ経蔵の建築を真似て平安時代中期に現在の場所に再建されました。 西院伽藍の鐘楼は、正方形状に裾広がりの形状をした「 袴腰(はかまごし/ばかまごし )」と呼ばれる様式で、日本中の袴腰を持った現存する鐘楼としては最古の鐘楼です。 梵鐘は「 天平時代( 奈良時代前期 )」に鋳造されたものです。 この梵鐘が撞かれるのは、「 夏安居( げあんご、
僧が夏の期間、外出せずに一所にこもって修行をすること )」の期間( 5月16日 ~ 8月15日 )で、毎朝一度のみです。 古いので遠くまで音が届かないそうです。
【 五重塔( 国宝 )】
木造の五重塔として現存「 世界最古 」の物です。 初重から五重までの屋根の「 逓減率( 大きさの減少する率 )」が高いことがこの塔の特色で、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分となっています。 初層から四重目までの柱間は通例の三間ですが五重目のみ二間となっています。 五重塔初層内部にも壁画( 現在は別途保管、重文 )がありましたが、漆喰が上から塗られたことなどが原因で剥落してしまいました。 「 心礎( 心柱の礎石 )」は、地下3mにあり、心礎内からは 昭和元年( 1926 )の調査で、ガラス製の「 舎利壺 」とこれを納める金製、銀製、響銅製の容器からなる「 舎利容器 」が発見されました。
・塔本四面具( とうほんしめんぐ、国宝 )
初重内陣には東面・西面・南面・北面 各々に「 塔本四面具 」と呼ばれる 計80点の塑造が安置されています。 この塑像は 塔の完成後「 和銅4年( 711 )に造られました。 使用された粘土は、寺の近くの土と成分がほぼ等しいことから近くの土で作られたと推測されています。 東面は「 維摩経( ゆいまきょう )」に登場する、文殊菩薩と維摩居士( ゆいまこじ )の問答の場面、北面は釈迦の涅槃、西面は「 分舎利 」の場面、南面は弥勒の浄土を表わしています。 北面の釈迦の入滅を悲しむ仏弟子の像が有名です。
【 金堂( 国宝 )】
入母屋造の二重仏堂です。 桁行五間、梁間四間、二重、初層裳階付となっています。 上層には部屋は無く、外観のみです。 二重目の軒を支える四方の龍の彫刻を刻んだ柱は構造を補強するため修理の際に付加されたものです。 金堂の壁画は日本の仏教絵画の代表作として国際的に著名なものでしたが、昭和29年( 1949 )壁画模写作業中の火災により、初層内陣の壁と柱を焼損しました。 黒焦げとなった 旧壁画( 重文 )と柱は現存しており、寺内大宝蔵院東側の収蔵庫に保管されていますが非公開です。 この時の火災が切っ掛けとなり「 文化財保護法 」が制定され、火災のあった1月26日は「 文化財防火デー 」で、毎年消防訓練が行われます。 堂内は中の間、東の間、西の間に分かれ( 壁等の仕切りは無い )、各々に 国宝と重要文化財が安置されています。
「 飛鳥様式 」の卍くずしの高欄( 手すり )、それを支える「 人 」字形の束( つか )などが見られます。
・釈迦三尊像( 国宝 )
穏やかな微笑みをたたえています。 推古30年( 622 )に聖徳太子の親族と家臣が太子が、太子が浄土に往生することを願い造られました。 像の裏側の 記述( 尺寸王身 )から、太子の身長をそのまま映して造られてものだと判明しました。 因みに 像の座高は 約90cmです。 往事の釈迦の身丈は約5mだと信じられていましたが、人間の背丈程の像を造り、より身近に悟りを開いた釈迦として日々あゆみ留めたのだと思われます。 この像は「 鞍作止利( くらつくりのとり )」により造られたとも書かれています。 日本仏教彫刻史の初頭を飾る名作です。 この像の「 右手 」は、人々の恐れを取り除き心に平安を与えるポーズを。 又左手は人々の願いを聞き入れ、指と指との間にある 水かき は、あらゆる人々を漏らさず掬い上げるというポーズです。 図式的な衣文の処理、杏仁形( アーモンド形 )の眼、アルカイックスマイル( 古式の微笑 )、太い耳朶( 耳たぶ )、首に三道( 3つのくびれ )を刻まない点など、後世の日本の仏像と異なった様式を示しています。
・薬師如来坐像( 国宝 )
光背銘に「 用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子が改めて推古天皇15年( 607 )、像と寺を完成した 」という趣旨の記述が残っています。 本像の脇持とされる「 日光菩薩像 と 月光菩薩像 」は別に保管されています。 作風が異なるので、本来一具のものでは無いと考えられています。
・四天王立像( 国宝 )
「 須弥壇 」の四隅に置かれた四天王像は、現存する日本最古の四天王像で飛鳥時代の作です。 広目天・多聞天像の光背裏刻銘に「 山口大口費 」の作と掘られています。 同じ堂内の釈迦三尊像、薬師如来像が銅造であるのに対し木造彩色です。
写真は「 広目天像 」と「 多聞天像 」です。
・毘沙門天・吉祥天立像( 国宝 )
中の間「 釈迦三尊像 」の左右に立つ平安時代の木造彩色像。 「 金堂日記 」から 承暦2年( 1078 )の作とされています。
・阿弥陀三尊像( 重要文化財 )
鎌倉時代の慶派の仏師・康勝の作です。 元来の西の間本尊が中世に盗難にあったために新たに作られました。 全体の構成、衣文などは鎌倉時代の仏像にしては古風で、東の間の薬師如来像を模したと思われますが、顔の表情などは鎌倉時代風になっています。 両脇侍の内「 勢至( せいし )菩薩像 」は幕末から明治初期の時代に行方不明になりましたが、現在、フランス・ギメ美術館蔵となっています。
・天蓋の天人と鳳凰( 重要文化財 )
金堂内陣には 天人や鳳凰が舞う3つの華麗な「 天蓋( てんがい )」が吊り下げられています。 釈迦三尊像の「 中の間( 飛鳥時代作 )」、薬師如来像の「 東の間( 鎌倉時代作 )」、阿弥陀三尊像の「 西の間 」に分けられています。 天人は縦笛や琵琶等を奏でる童子で、鳳凰の嘴( くちばし )には小さな穴があり、元々は飾りを付けていました。
【 大講堂( 国宝 )】
桁行九間( 奥行 16.2m )、梁間四間( 横幅 7.2m )、一重入母屋造、本瓦葺きです。 大講堂は仏教の学問を研鑽( けんさん )したり法要を行う施設です。 この大講堂は 平安時代 延長3年( 925 )に落雷により焼失し、正略元年( 990 )にようやく再建されました。 現在見ることの出来る 大講堂は鎌倉時代後期から江戸時代前期の間に再建された時の物です。 毎年4月8日に開かれる「 仏性会( 花まつり )」では、堂の真ん中にお釈迦様の小さな誕生仏が祭られ、甘茶を注ぐ行事が、平安時代中期から今に至る迄続けられています。 薬師三尊像と四天王像が安置されています。
・薬師三尊像( 国宝 )
大講堂の本尊です。 中央に薬師如来( 一木造り )、左に日光菩薩、右に月光菩薩( 共に寄せ木造り )が安置されています。 螺髪の形状やド頭の後頭部の盛り上がりとなる「 肉髻( にくけい )」の高さが低いことなど平安期の仏像の特徴を伝えています。 像高は 2.5m。 これ等の仏像も落雷の被害にあった後、堂舎と共に新たに造られました。 他に「 四天王像( 重文 )」が安置されています。
明日「 其の弐 」として、もう一つの伽藍 「東院伽藍 」からスタートします。
『 西院伽藍 』
南に位置する「 中門 」から左右から伸びた「 凸型の回廊 」は、北側に建つ「 大講堂 」の左右に接して終わっています。 この 廻廊に向かって右に金堂、左に五重塔を配し、東に鐘楼、西に経蔵があります。 これ等の伽藍を「 西院伽藍 」と呼んでいます。 金堂、五重塔、中門、回廊は「 聖徳太子在世時 」のものでは無く7世紀後半頃に再建された物です。 金堂・五重塔・中門の建築様式は、「 組物( 軒の出を支える建築部材 )に雲斗、雲肘木と呼ばれる曲線を多用した部材を用いること、建物四隅の組物が斜め( 45度方向 )にのみ出ること、卍くずしの高欄(手すり)、それを支える「 人 」字形の束( つか )などが特徴です。 これ等は法隆寺 金堂・五重塔・中門、法起寺三重塔、法輪寺三重塔( 焼失 )のみに見られる様式で「 飛鳥様式 」と呼ばれています。
【 中門( 国宝 )】
入母屋造の二重門です。 正面は四間二戸と入り口が2箇所、側面が三間あるのが特徴です。 柱には「 檜材 」が使われています。 エンタシス風の柱や、上層部には 金堂と同じく「 卍崩しと人字型の割束を配しているのが特徴です。 門は現在、出入り口としては使用されておらず、拝観者は回廊の西南隅から入ります。
3箇所( 西院伽藍、東院伽藍、、大宝蔵院 )が見られる「 共通拝観券 」を購入します。
・金剛力士像
門の左右には、日本で最古の守護神である「 開口の阿形( あぎょう:塑像 )像と、口を結んだ吽形( うんぎょう )の金剛力士立像 」が安置されています。 日本最古( 8世紀初頃 )の仁王像として貴重なものですが、風雨にさらされ補修が甚だしく、吽形( うんぎょう )像の体部は木造の後補に代わっています。 ここの金剛力士像には「 金網 」が掛かっていません。
【 東西の廻廊( 国宝 )】
廻廊は 東に位置する「 鐘楼 」、中央に位置する「 大講堂 」、西側に位置する「 経蔵 」に繋がり、五重塔と金堂を囲む形となっています。 これが法隆寺の「 伽藍配置 」となっています。 東回廊の長さは約76m、西回廊の長さは約72mで、長さが異なるのには、金堂と塔との釣り合いを考えている為です。
先程、柱が エンタシス風( ギリシャ パルテノンの宮殿に柱に代表される 上の部分と下の部分を徐々に細くするデザインの柱で、柱を下から見上げると、まっすぐに安定しているように見える )と書きましたが、遠くのギリシャからその技法が入って来たとすると、その途中の国でも見られても良いはずですが、この柱の技法を用いた建築物が途中の国では見られ無いことから、日本独自の作風と考えられています。
【 経蔵( 国宝 )】
仏教の経典( 一切経と言う大乗仏教の大蔵経 )を収める書庫でした。 現在は、平安時代造立の百済の学僧「 観勒( かんろく )僧正像 」が安置されています。 観勒は、天文や地理学を日本に伝えた百済の学僧です。
【 鐘楼( 国宝 )】
この建物は 延長3年( 925 )に、大講堂と共に 落雷で焼失し、その後、対称的な位置に建つ経蔵の建築を真似て平安時代中期に現在の場所に再建されました。 西院伽藍の鐘楼は、正方形状に裾広がりの形状をした「 袴腰(はかまごし/ばかまごし )」と呼ばれる様式で、日本中の袴腰を持った現存する鐘楼としては最古の鐘楼です。 梵鐘は「 天平時代( 奈良時代前期 )」に鋳造されたものです。 この梵鐘が撞かれるのは、「 夏安居( げあんご、
僧が夏の期間、外出せずに一所にこもって修行をすること )」の期間( 5月16日 ~ 8月15日 )で、毎朝一度のみです。 古いので遠くまで音が届かないそうです。
【 五重塔( 国宝 )】
木造の五重塔として現存「 世界最古 」の物です。 初重から五重までの屋根の「 逓減率( 大きさの減少する率 )」が高いことがこの塔の特色で、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分となっています。 初層から四重目までの柱間は通例の三間ですが五重目のみ二間となっています。 五重塔初層内部にも壁画( 現在は別途保管、重文 )がありましたが、漆喰が上から塗られたことなどが原因で剥落してしまいました。 「 心礎( 心柱の礎石 )」は、地下3mにあり、心礎内からは 昭和元年( 1926 )の調査で、ガラス製の「 舎利壺 」とこれを納める金製、銀製、響銅製の容器からなる「 舎利容器 」が発見されました。
・塔本四面具( とうほんしめんぐ、国宝 )
初重内陣には東面・西面・南面・北面 各々に「 塔本四面具 」と呼ばれる 計80点の塑造が安置されています。 この塑像は 塔の完成後「 和銅4年( 711 )に造られました。 使用された粘土は、寺の近くの土と成分がほぼ等しいことから近くの土で作られたと推測されています。 東面は「 維摩経( ゆいまきょう )」に登場する、文殊菩薩と維摩居士( ゆいまこじ )の問答の場面、北面は釈迦の涅槃、西面は「 分舎利 」の場面、南面は弥勒の浄土を表わしています。 北面の釈迦の入滅を悲しむ仏弟子の像が有名です。
【 金堂( 国宝 )】
入母屋造の二重仏堂です。 桁行五間、梁間四間、二重、初層裳階付となっています。 上層には部屋は無く、外観のみです。 二重目の軒を支える四方の龍の彫刻を刻んだ柱は構造を補強するため修理の際に付加されたものです。 金堂の壁画は日本の仏教絵画の代表作として国際的に著名なものでしたが、昭和29年( 1949 )壁画模写作業中の火災により、初層内陣の壁と柱を焼損しました。 黒焦げとなった 旧壁画( 重文 )と柱は現存しており、寺内大宝蔵院東側の収蔵庫に保管されていますが非公開です。 この時の火災が切っ掛けとなり「 文化財保護法 」が制定され、火災のあった1月26日は「 文化財防火デー 」で、毎年消防訓練が行われます。 堂内は中の間、東の間、西の間に分かれ( 壁等の仕切りは無い )、各々に 国宝と重要文化財が安置されています。
「 飛鳥様式 」の卍くずしの高欄( 手すり )、それを支える「 人 」字形の束( つか )などが見られます。
・釈迦三尊像( 国宝 )
穏やかな微笑みをたたえています。 推古30年( 622 )に聖徳太子の親族と家臣が太子が、太子が浄土に往生することを願い造られました。 像の裏側の 記述( 尺寸王身 )から、太子の身長をそのまま映して造られてものだと判明しました。 因みに 像の座高は 約90cmです。 往事の釈迦の身丈は約5mだと信じられていましたが、人間の背丈程の像を造り、より身近に悟りを開いた釈迦として日々あゆみ留めたのだと思われます。 この像は「 鞍作止利( くらつくりのとり )」により造られたとも書かれています。 日本仏教彫刻史の初頭を飾る名作です。 この像の「 右手 」は、人々の恐れを取り除き心に平安を与えるポーズを。 又左手は人々の願いを聞き入れ、指と指との間にある 水かき は、あらゆる人々を漏らさず掬い上げるというポーズです。 図式的な衣文の処理、杏仁形( アーモンド形 )の眼、アルカイックスマイル( 古式の微笑 )、太い耳朶( 耳たぶ )、首に三道( 3つのくびれ )を刻まない点など、後世の日本の仏像と異なった様式を示しています。
・薬師如来坐像( 国宝 )
光背銘に「 用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子が改めて推古天皇15年( 607 )、像と寺を完成した 」という趣旨の記述が残っています。 本像の脇持とされる「 日光菩薩像 と 月光菩薩像 」は別に保管されています。 作風が異なるので、本来一具のものでは無いと考えられています。
・四天王立像( 国宝 )
「 須弥壇 」の四隅に置かれた四天王像は、現存する日本最古の四天王像で飛鳥時代の作です。 広目天・多聞天像の光背裏刻銘に「 山口大口費 」の作と掘られています。 同じ堂内の釈迦三尊像、薬師如来像が銅造であるのに対し木造彩色です。
写真は「 広目天像 」と「 多聞天像 」です。
・毘沙門天・吉祥天立像( 国宝 )
中の間「 釈迦三尊像 」の左右に立つ平安時代の木造彩色像。 「 金堂日記 」から 承暦2年( 1078 )の作とされています。
・阿弥陀三尊像( 重要文化財 )
鎌倉時代の慶派の仏師・康勝の作です。 元来の西の間本尊が中世に盗難にあったために新たに作られました。 全体の構成、衣文などは鎌倉時代の仏像にしては古風で、東の間の薬師如来像を模したと思われますが、顔の表情などは鎌倉時代風になっています。 両脇侍の内「 勢至( せいし )菩薩像 」は幕末から明治初期の時代に行方不明になりましたが、現在、フランス・ギメ美術館蔵となっています。
・天蓋の天人と鳳凰( 重要文化財 )
金堂内陣には 天人や鳳凰が舞う3つの華麗な「 天蓋( てんがい )」が吊り下げられています。 釈迦三尊像の「 中の間( 飛鳥時代作 )」、薬師如来像の「 東の間( 鎌倉時代作 )」、阿弥陀三尊像の「 西の間 」に分けられています。 天人は縦笛や琵琶等を奏でる童子で、鳳凰の嘴( くちばし )には小さな穴があり、元々は飾りを付けていました。
【 大講堂( 国宝 )】
桁行九間( 奥行 16.2m )、梁間四間( 横幅 7.2m )、一重入母屋造、本瓦葺きです。 大講堂は仏教の学問を研鑽( けんさん )したり法要を行う施設です。 この大講堂は 平安時代 延長3年( 925 )に落雷により焼失し、正略元年( 990 )にようやく再建されました。 現在見ることの出来る 大講堂は鎌倉時代後期から江戸時代前期の間に再建された時の物です。 毎年4月8日に開かれる「 仏性会( 花まつり )」では、堂の真ん中にお釈迦様の小さな誕生仏が祭られ、甘茶を注ぐ行事が、平安時代中期から今に至る迄続けられています。 薬師三尊像と四天王像が安置されています。
・薬師三尊像( 国宝 )
大講堂の本尊です。 中央に薬師如来( 一木造り )、左に日光菩薩、右に月光菩薩( 共に寄せ木造り )が安置されています。 螺髪の形状やド頭の後頭部の盛り上がりとなる「 肉髻( にくけい )」の高さが低いことなど平安期の仏像の特徴を伝えています。 像高は 2.5m。 これ等の仏像も落雷の被害にあった後、堂舎と共に新たに造られました。 他に「 四天王像( 重文 )」が安置されています。
明日「 其の弐 」として、もう一つの伽藍 「東院伽藍 」からスタートします。
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