久し振りに「西本願寺」を訪ねました
久し振りに「西本願寺」を訪ねました。 烏丸通りと七条通りの交差点に出て七条通りを西に向かって歩きます。 途中 数軒の「 仏壇屋 」さんを見かけましたが、昔( 半世紀前 )と変わらない佇まいでした。
そして堀川通りを渡ると正面に「 興正寺 」の山門が見えます。
その前を通ると「 西本願寺 」が目の前に見えます。
【 西本願寺の歴史 】
少し「 西本願寺 」の歴史に就いて書きます。 本願寺は「 浄土真宗本願寺派 」の本山です。 門徒は全国で 約一千万人です。 正式には龍谷山本願寺といい、一般には「 西本願寺 」と呼ばれています。 浄土真宗は、鎌倉時代 法然( 浄土宗 知恩院 )を師と仰ぐ「 親鶯聖人【 承安3年4月1日( 1173 ) - 弘長2年( 1263 )11月28日( 1173 )】により開かれました。 「 親鸞聖人 」は
承安3年 現在の法界寺、日野誕生院付近( 京都市伏見区日野 )にて、皇太后宮大進、日野有範の長男として誕生します。 治承5年( 1181 )9歳の時、叔父である日野範綱に伴われて「 京都青蓮院 」に入り、後の天台座主 慈鎮和尚 の元で得度して「 範宴( はんねん )」となります。 その後比叡山にて修行を重ね、29歳の時、「 法然 」の「 専修念仏( せんじゅねんぶつ : 浄土に往生する為、念仏以外の行をまじえず〈 南無阿弥陀仏 〉とただひたすらに念仏を唱えること。 法然やその門流の宗教的立場を端的に示す語 )の教えに触れ入門を決意し研鑽を積み、次第に法然に高く評価されるようになります。 35歳の時「 承元の法難( じょうげんのほうなん 念仏の弾圧 )」では、法然ひきいる吉水教団が既存仏教教団により弾圧され、後鳥羽上皇によって専修念仏の停止(ちょうじ)と、法然の門弟4人の死罪、法然と親鸞ら中心的な門弟7人が「 越後 」に流罪となりました。 そして東国で妻の恵信尼と共に布教活動に努め、62(63)歳の頃に帰京し、「 教行信証 」等多くの著述に力を注ぎ著作活動に励むようになります。 弘長2年( 1263 )押小路南 万里小路東にある実弟の尋有が院主である「 善法院 」にて90歳をもって11月28日に入滅すしました。 臨終は、親鸞の弟の尋有や末娘の覚信尼らが看取られました。
翌29日葬送。 東山鳥辺野( とりべの )の南、「 延仁寺 」にて荼毘にふされ、翌30日拾骨。 鳥辺野の北「 大谷 」に墓所を築き納骨されました。
親鷺聖人の滅後、娘の「 覚信尼 」は、聖人の遺弟達と共に京都東山大谷に廟堂を建て
聖人の遺骨と影像を安置しました。 やがてこの廟堂が本願寺となり、宗門の礎となりました。 その後、西本願寺中興の祖である第8世宗主 蓮如上人( 1415 – 1499 )の時には教線が拡大され、更に第11世宗主顕如上人( 1543 – 1592 )の時には、本願寺の寺基が現在の京都堀川六条に定められました。
以下 歩いた順番に( 門から境内、そしてお堂 )写真で説明します。
【 北小路通 と 門 】
「 興正寺 」と「 西本願寺 」の境に「 北小路通りと門 」があります。 その先右手に「 唐門 と 大玄関門 」を、左手に「 龍谷大学 」と突き当たりに「 平安高校 」があります。
【 築地塀( 重要文化財 )】
切妻造、本瓦葺の版築の塀で5本の定規筋が引かれています。江戸中期~後期の建築と言われています。
【 御影堂門( 重要文化財 )】
堀川通りに面し境内に入る門は「 御影堂( ごえいどう )門 」と「 阿弥陀堂門 」と「 御成門 」の三箇所があります。 「 御影堂門 」は親鸞聖人600回大遠忌を前に、安政6年( 1859 )修理されました。 昭和35年( 1960 )親鸞聖人700回大遠忌を前に修理されました。 又平成18年( 2006 )から平成21年( 2009 )に掛け、親鸞聖人750回大遠忌を前に、築地塀と併せて石工事・屋根工事・金物工事等が実施されました。
【 本願寺献菊展 】
入ってすぐ左手に 立派に育てられた 綺麗な菊が展示されていました。
【 手水舎( ちょうずや、重要文化財 )】
破風板には錺金具を付けており、四周を開放し花崗岩の四半敷で中央に石製の井戸と水盤を据えています。 軸部は方形礎盤に几帳面取角柱を立て、内法虹梁( うちのりこうりょう )で繋ぎ、柱頂部の舟肘木と内法虹梁上の蟇股( かえるまた )で受け、鏡天井を張っています。 平成22年( 2010 )に修復されました。
【 銀杏の木( 京都市指定天然記念物 )】
この銀杏は、低い位置から各方向に水平枝や斜上枝が伸びており特徴的な形状をしています。 これは植栽時から剪定等の行き届いた管理がなされていたためと考えられます。 御影堂が寛永13年( 1636 )の建立であることから、樹齢は約400年と推定されています。 一般に銀杏は耐火力の強い樹種ですが、この銀杏も天明八年( 1788 )や、元治元年( 1864 )の大火の際に、火の粉を浴びながらも生き抜いてきた木です。
【 御影堂( ごえいどう、国宝 )】
内陣中央に「 親鸞聖人 」の御真影( 木造 )が、左右に本願寺歴代門主の御影を安置されていることから「 御影堂 」と呼ばれます。 寛永13年( 1636 )再建されました。 東西48m、南北62m、高さ29mで、外陣には441枚の畳が敷かれ、一度に3000名の方々が参拝する事が出来ます。 この写真に写っている柱は全部で227本有り、 屋根瓦 約115千枚を支えています。 重要な行事は、この御堂で行われます。 天井を見上げると 大きな「 菱型灯籠 」がぶら下がっています。 以前NHKで 御影堂 の平成の大修復の番組がありましたが、近で見ると その技術の素晴らしさが判ります。 外陣( 参拝者区域 )より撮った写真です。 内陣の漆の床を撮るのを忘れました。 動画です。
【 渡り廊下 】
御影堂と阿弥陀堂をつなぐ廊下です。
【 阿弥陀堂( 国宝 )】
本願寺の本堂で、内陣中央に阿弥陀如来像が、両脇掛には左右にインド・中国・日本の念仏の祖師七師の内 龍樹菩薩、天親菩薩、曇鸞菩薩、道綽禅師、善導禅師、源信和尚の6師と、両余間には、法然聖人の影像と聖徳太子の影像が安置されていることから「 阿弥陀堂 」と呼ばれています。 宝暦10年( 1760 )再建されました。 東西48m、南北45m、高さ25m。 丁度 説法の最中でした。
【 総門( 重要文化財 )】
「 御影堂 」を背に 堀川通りの反対側に有る門です。 現在の場所迄に三度移築されています。 最初は蓮如上人450回忌の明治31年( 1898 )、二度目は親鸞聖人650回大遠忌を控えた明治44年( 1911 )。 三度目は昭和34年( 1959 )に交通量の増加に対応した堀川通りの拡張が計画され、京都市の要請で現在地に移転しました。 虹梁(こうりょう)に大柄な二組の蟇股( かえるまた )を配しています。 平成23年( 2011 )に修復されました。
【 廊下の埋め木 】
木材の補強・修復や再利用をする為に、亀裂や穴を木片で繕うことを「 埋め木 」と言います。 多くの参拝者が行き交う御影堂・阿弥陀堂の縁側や廊下にもこの「 埋め木 」が多く見られます。 何気なく歩いていると気づきませんが、じっくり捜すと、色々な処に、リスなどの動物、もみじなどの植物、とっくりや軍配など様々なモノをかたどった「 埋め木 」を見付けることが出来、単なる補強ではなく、出来るだけ工夫を凝らした当時の大工さんの遊び心が伺えます。 意外と皆さん見落としています。
【 飛雲閣( 国宝 )】
金閣、銀閣とともに京都三名閣の一つ。秀吉が建てた聚楽第(じゅらくだい)の一部ともいわれており、三層からなる楼閣( ろうかく )建築です。 時間の都合でここは 訪れておりません。
【 阿弥陀堂門 】
昭和期の阿弥陀堂修復事業を機縁とし、昭和58年( 1983 )、檜皮( ひわだ )の一部葺替、飾金具の修正、金箔押などの補修が行われました。 また 平成21年( 2009 )に、御影堂門・築地塀修理の際に併せて修復工事が行われました。 時間の都合でここは 訪れておりません。
【 唐門( 国宝 )】
桃山時代の豪華な装飾彫刻を充満した檜皮葺き( ひわだぶき )・唐破風( からはふ )の四脚門( しきゃくもん )で、伏見城の遺構とも言われています。 彫刻の見事さに日の暮れるのを忘れることから「 日暮らし門 」とも呼ばれています。 両面透かし彫りと彩りが綺麗です。 皆さん 境内とお堂を見られたら大半の方はそのまま帰られると思いますが 少し寄り道して見る価値のある門です。
【 大玄関門 】
「 本瓦葺・入母屋造り・妻入りに唐破風 」で、公式行事等に際して 来客を迎え為の門です。 「 第二十代廣如上人 」の時代 弘化4年( 1847 )に新築されたとされ、左右に「 門番屋 」を持つ「 薬医門 」で、「 江戸幕府 十万石以上の大名家格式に準じる 」との事です。
明日は 龍谷大学の本館建物に就いて書きます。
そして堀川通りを渡ると正面に「 興正寺 」の山門が見えます。
その前を通ると「 西本願寺 」が目の前に見えます。
【 西本願寺の歴史 】
少し「 西本願寺 」の歴史に就いて書きます。 本願寺は「 浄土真宗本願寺派 」の本山です。 門徒は全国で 約一千万人です。 正式には龍谷山本願寺といい、一般には「 西本願寺 」と呼ばれています。 浄土真宗は、鎌倉時代 法然( 浄土宗 知恩院 )を師と仰ぐ「 親鶯聖人【 承安3年4月1日( 1173 ) - 弘長2年( 1263 )11月28日( 1173 )】により開かれました。 「 親鸞聖人 」は
承安3年 現在の法界寺、日野誕生院付近( 京都市伏見区日野 )にて、皇太后宮大進、日野有範の長男として誕生します。 治承5年( 1181 )9歳の時、叔父である日野範綱に伴われて「 京都青蓮院 」に入り、後の天台座主 慈鎮和尚 の元で得度して「 範宴( はんねん )」となります。 その後比叡山にて修行を重ね、29歳の時、「 法然 」の「 専修念仏( せんじゅねんぶつ : 浄土に往生する為、念仏以外の行をまじえず〈 南無阿弥陀仏 〉とただひたすらに念仏を唱えること。 法然やその門流の宗教的立場を端的に示す語 )の教えに触れ入門を決意し研鑽を積み、次第に法然に高く評価されるようになります。 35歳の時「 承元の法難( じょうげんのほうなん 念仏の弾圧 )」では、法然ひきいる吉水教団が既存仏教教団により弾圧され、後鳥羽上皇によって専修念仏の停止(ちょうじ)と、法然の門弟4人の死罪、法然と親鸞ら中心的な門弟7人が「 越後 」に流罪となりました。 そして東国で妻の恵信尼と共に布教活動に努め、62(63)歳の頃に帰京し、「 教行信証 」等多くの著述に力を注ぎ著作活動に励むようになります。 弘長2年( 1263 )押小路南 万里小路東にある実弟の尋有が院主である「 善法院 」にて90歳をもって11月28日に入滅すしました。 臨終は、親鸞の弟の尋有や末娘の覚信尼らが看取られました。
翌29日葬送。 東山鳥辺野( とりべの )の南、「 延仁寺 」にて荼毘にふされ、翌30日拾骨。 鳥辺野の北「 大谷 」に墓所を築き納骨されました。
親鷺聖人の滅後、娘の「 覚信尼 」は、聖人の遺弟達と共に京都東山大谷に廟堂を建て
聖人の遺骨と影像を安置しました。 やがてこの廟堂が本願寺となり、宗門の礎となりました。 その後、西本願寺中興の祖である第8世宗主 蓮如上人( 1415 – 1499 )の時には教線が拡大され、更に第11世宗主顕如上人( 1543 – 1592 )の時には、本願寺の寺基が現在の京都堀川六条に定められました。
以下 歩いた順番に( 門から境内、そしてお堂 )写真で説明します。
【 北小路通 と 門 】
「 興正寺 」と「 西本願寺 」の境に「 北小路通りと門 」があります。 その先右手に「 唐門 と 大玄関門 」を、左手に「 龍谷大学 」と突き当たりに「 平安高校 」があります。
【 築地塀( 重要文化財 )】
切妻造、本瓦葺の版築の塀で5本の定規筋が引かれています。江戸中期~後期の建築と言われています。
【 御影堂門( 重要文化財 )】
堀川通りに面し境内に入る門は「 御影堂( ごえいどう )門 」と「 阿弥陀堂門 」と「 御成門 」の三箇所があります。 「 御影堂門 」は親鸞聖人600回大遠忌を前に、安政6年( 1859 )修理されました。 昭和35年( 1960 )親鸞聖人700回大遠忌を前に修理されました。 又平成18年( 2006 )から平成21年( 2009 )に掛け、親鸞聖人750回大遠忌を前に、築地塀と併せて石工事・屋根工事・金物工事等が実施されました。
【 本願寺献菊展 】
入ってすぐ左手に 立派に育てられた 綺麗な菊が展示されていました。
【 手水舎( ちょうずや、重要文化財 )】
破風板には錺金具を付けており、四周を開放し花崗岩の四半敷で中央に石製の井戸と水盤を据えています。 軸部は方形礎盤に几帳面取角柱を立て、内法虹梁( うちのりこうりょう )で繋ぎ、柱頂部の舟肘木と内法虹梁上の蟇股( かえるまた )で受け、鏡天井を張っています。 平成22年( 2010 )に修復されました。
【 銀杏の木( 京都市指定天然記念物 )】
この銀杏は、低い位置から各方向に水平枝や斜上枝が伸びており特徴的な形状をしています。 これは植栽時から剪定等の行き届いた管理がなされていたためと考えられます。 御影堂が寛永13年( 1636 )の建立であることから、樹齢は約400年と推定されています。 一般に銀杏は耐火力の強い樹種ですが、この銀杏も天明八年( 1788 )や、元治元年( 1864 )の大火の際に、火の粉を浴びながらも生き抜いてきた木です。
【 御影堂( ごえいどう、国宝 )】
内陣中央に「 親鸞聖人 」の御真影( 木造 )が、左右に本願寺歴代門主の御影を安置されていることから「 御影堂 」と呼ばれます。 寛永13年( 1636 )再建されました。 東西48m、南北62m、高さ29mで、外陣には441枚の畳が敷かれ、一度に3000名の方々が参拝する事が出来ます。 この写真に写っている柱は全部で227本有り、 屋根瓦 約115千枚を支えています。 重要な行事は、この御堂で行われます。 天井を見上げると 大きな「 菱型灯籠 」がぶら下がっています。 以前NHKで 御影堂 の平成の大修復の番組がありましたが、近で見ると その技術の素晴らしさが判ります。 外陣( 参拝者区域 )より撮った写真です。 内陣の漆の床を撮るのを忘れました。 動画です。
【 渡り廊下 】
御影堂と阿弥陀堂をつなぐ廊下です。
【 阿弥陀堂( 国宝 )】
本願寺の本堂で、内陣中央に阿弥陀如来像が、両脇掛には左右にインド・中国・日本の念仏の祖師七師の内 龍樹菩薩、天親菩薩、曇鸞菩薩、道綽禅師、善導禅師、源信和尚の6師と、両余間には、法然聖人の影像と聖徳太子の影像が安置されていることから「 阿弥陀堂 」と呼ばれています。 宝暦10年( 1760 )再建されました。 東西48m、南北45m、高さ25m。 丁度 説法の最中でした。
【 総門( 重要文化財 )】
「 御影堂 」を背に 堀川通りの反対側に有る門です。 現在の場所迄に三度移築されています。 最初は蓮如上人450回忌の明治31年( 1898 )、二度目は親鸞聖人650回大遠忌を控えた明治44年( 1911 )。 三度目は昭和34年( 1959 )に交通量の増加に対応した堀川通りの拡張が計画され、京都市の要請で現在地に移転しました。 虹梁(こうりょう)に大柄な二組の蟇股( かえるまた )を配しています。 平成23年( 2011 )に修復されました。
【 廊下の埋め木 】
木材の補強・修復や再利用をする為に、亀裂や穴を木片で繕うことを「 埋め木 」と言います。 多くの参拝者が行き交う御影堂・阿弥陀堂の縁側や廊下にもこの「 埋め木 」が多く見られます。 何気なく歩いていると気づきませんが、じっくり捜すと、色々な処に、リスなどの動物、もみじなどの植物、とっくりや軍配など様々なモノをかたどった「 埋め木 」を見付けることが出来、単なる補強ではなく、出来るだけ工夫を凝らした当時の大工さんの遊び心が伺えます。 意外と皆さん見落としています。
【 飛雲閣( 国宝 )】
金閣、銀閣とともに京都三名閣の一つ。秀吉が建てた聚楽第(じゅらくだい)の一部ともいわれており、三層からなる楼閣( ろうかく )建築です。 時間の都合でここは 訪れておりません。
【 阿弥陀堂門 】
昭和期の阿弥陀堂修復事業を機縁とし、昭和58年( 1983 )、檜皮( ひわだ )の一部葺替、飾金具の修正、金箔押などの補修が行われました。 また 平成21年( 2009 )に、御影堂門・築地塀修理の際に併せて修復工事が行われました。 時間の都合でここは 訪れておりません。
【 唐門( 国宝 )】
桃山時代の豪華な装飾彫刻を充満した檜皮葺き( ひわだぶき )・唐破風( からはふ )の四脚門( しきゃくもん )で、伏見城の遺構とも言われています。 彫刻の見事さに日の暮れるのを忘れることから「 日暮らし門 」とも呼ばれています。 両面透かし彫りと彩りが綺麗です。 皆さん 境内とお堂を見られたら大半の方はそのまま帰られると思いますが 少し寄り道して見る価値のある門です。
【 大玄関門 】
「 本瓦葺・入母屋造り・妻入りに唐破風 」で、公式行事等に際して 来客を迎え為の門です。 「 第二十代廣如上人 」の時代 弘化4年( 1847 )に新築されたとされ、左右に「 門番屋 」を持つ「 薬医門 」で、「 江戸幕府 十万石以上の大名家格式に準じる 」との事です。
明日は 龍谷大学の本館建物に就いて書きます。
















































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