新橋演舞場 6月歌舞伎NEXT「 阿弖流為( あてるい )」を観てきました

今年は「 松竹創業120年 」に当たり、歌舞伎座以外に「 若い俳優( 歌舞伎 Next )」による「 公演 」が予定されています。
 ・7月は新橋演舞場で「 染五郎×劇団☆新感線 」による
  「 阿弖流弓( あてるい )」
画像
画像
 ・8月は 六本木歌舞伎座で「 海老蔵 × クドカン 」による
  「 地球投五郎宇宙荒事 」   禄時代を舞台に、中村獅童
  扮する宇宙人の悪の親玉と、市川海老蔵扮する正義の
  味方の対決を描いた作品。
 ・10/11月は新橋演舞場で「 四代目市川猿之助 × コミック 
  スーパー歌舞伎II ワンピース 」   週刊少年ジャンプ連載
  の人気マンガ「 ONE PIECE(ワンピース)」が歌舞伎になり
  ます。

観に行った「 阿弖流為 」は、2008年8月、新橋演舞場で上演された「 アテルイ 」が、歌舞伎の「 阿弖流為 」として「 歌舞伎化 」して公演されています。   主人公の蝦夷( えみし )の英雄、阿弖流為に「 染五郎 」。   阿弖流為に友情を感じながらも蝦夷討伐へ向かう坂上田村麻呂には「 勘九郎 」、謎に満ちた蝦夷の女、立烏帽子に「 七之助 」そして彌十郎、萬次郎、亀蔵といった俳優陣です。   以前、NHKの「 歴史ドラマ 」でも取り上げられたことがありました。
画像
画像
画像

【 歴史的に捉えた 阿弖流為 とは 】 
「 阿弖流為 」は 今から約1、200年前( 大和朝廷の時代 )、現在の「 岩手県奥州市付近 」で生活していた蝦夷【 えみし、えぞ : 大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方( 現在の関東地方の一部と東北地方 )や、北方( 現在の北海道地方 )に住む人々を異族視した呼称であるが、近世以降は 北海道・樺太・千島列島 及びロシア・カムチャツカ半島南部に跨がる地域の先住民族で、アイヌ語を母語とするアイヌを指しています 】の一人です。   当時「 水陸万頃【 すいりくばんけい : 水と土地( 陸 )が豊かな( 万頃 )さまをいう 】」と言われていたこの「 胆沢地方( いさわちほう )
画像
画像
と蝦夷を統治したい朝廷軍との戦いがありました。 その中で「 阿弖流為 」は「 蝦夷のリーダー 」として勇敢に立ち向かった人物です。   「 阿弖流為 」という名は「 続日本紀 【 しょくにほんぎ : 延暦8年( 789年 )、巣伏村での戦いで朝廷軍に大勝した時のリーダーとして )】、「 日本紀略 ( にほんきりゃく )」という古い文献2冊にそれぞれ1度登場します。 

「 日本紀略 」には「 延暦21年( 802年 )」、戦いの後「 阿弖流為 」は「 仲間の母礼( もれ )」と共に、朝廷側の征夷大将軍だった「 坂上田村麻呂 」に降伏し、都へと上ります。  「 田村麻呂 」は朝廷に二人を故郷へ返すよう進言しますが聞き入れられず、旧暦8月13日「 阿弖流為 と 母礼 」は「 河内国椙山( 現在の大阪府枚方市 )で処刑された、と記されています。  「 阿弖流為 」に就いての最期こそ解る、いつ生まれたのか?どのように育ち、どんな人物だったのか?という詳しいことについては蝦夷たちが書いた文字資料がなく、また朝廷側が書いた資料で、現在残っている資料はとても少ない為、解らないことが多々あります。   

【 阿弖流為の登場 】
「 阿弖流為 」の名は今から約1、200年前の「 延暦8年( 789年 )、初めて史上に登場します。  8世紀後半、朝廷は「 蝦夷遠征計画 」を胆沢地方一点に絞ってきました。   延暦7年( 788年 )、「 征東大将軍 紀古佐美( きのこさみ )」に、胆沢遠征の命令が下りました。   遠征軍は5万余人で、戦闘経験者、戦功者、弓馬にたけた者たちが選抜されました。  翌年上旬、遠征軍は多賀城( 宮城県 )を出発し、胆沢へ進軍しました。  同月末には胆沢の南端の衣川に到着し3軍( 前・中・後 )に分けて布陣しました。  同6月、前軍が北上川右岸を、中・後軍は4,000の兵で同左岸をそれぞれ北上し「 阿弖流為 」拠点地域である「 巣伏村( 奥州市水沢区東郊一帯 )」で合流するという作戦です。  これに対し、「 阿弖流為 軍 」はゲリラ戦で応戦し、両岸を北上する政府の精鋭部隊を撃破したのでしました俗に言う「 胆沢の合戦 」の緒戦です。  「 阿弖流為 」の名はこの戦闘過程の中に現れてきます。   先の「 中・後軍 」各2、000人が北上川左岸を北上し、まさに「 賊帥夷 阿弖流為の居に至るころ( 続日本紀 )」という記事です。  この段階での蝦夷社会は、部族毎に戦士集団が形成されており、「 阿弖流為 」等は「 蝦夷戦士団 」を核に、胆沢の蝦夷連合軍を編成し、陽動作戦とゲリラ戦で応戦したのでした。  この後、政府は2度、胆沢遠征軍を派遣しますが、アテルイ軍は13年間にわたって、これを戦い抜いて来ました。  

【 田村麻呂の登場 】
延暦8年( 789年 )の「 胆沢の合戦 」に大敗した政府は、翌9年「 第二回 胆沢遠征 」の準備を始めました。  この時の遠征軍の人事は「 征夷大将軍 大伴弟麻呂( おおとものおとまろ )」と「 副将軍 坂上田村麻呂 」等でした。  田村麻呂が「 蝦夷討伐 」に関わった事が初めて登場します。 延暦13年( 794年 )「 将軍弟麻呂 」は「 桓武天皇 」から「 節刀 」を賜わり、胆沢遠征に出発しました。 今回の遠征軍の実戦部隊の総指揮官は「 田村麻呂 」でした。  「 第二回 胆沢遠征 」で勝利出来ず、延暦15年( 796年 )、「 第三回 胆沢遠征計画 」が始まり、数年掛けて、遠征の手はずを整えた「 田村麻呂 」は延暦20年( 801年)、征夷大将軍として4万の兵を率いて胆沢に遠征しました。    遠征軍は 善意の半分以下に縮小されています。  と言うのは、これ迄の戦いで「 蝦夷軍 」は大半の戦士を失い、又荒廃による食糧難という事態を生み、疲弊の度を増していました。  田村麻呂が編成した陣容は、既にこのような情況を察知した上でなされたのです。

【 阿弖流為の降伏 】
第三回胆沢遠征に出発しましたが、この間の詳しい戦闘経過は不明で、ただ「 日本紀略 」に9月27日、「 田村麻呂 」が「 東賊を討伏 」と記されているだけで、戦果も不明です。   田村麻呂は翌10月「 節刀 」を「 桓武天皇 」に返上し、遠征結果を報告し、蝦夷の反乱を制圧したという評価が与えられました。  翌年正月「 田村麻呂 」は再度胆沢に下だり、胆沢城を造営し、併せて諸国から浪人4、000人を胆沢城に移しました。
4月15日、胆沢城造営中の「 田村麻呂 」の所に、「 阿弖流為、母礼 」以下「 蝦夷戦士 500余人 」が投降してきました。  巨大な胆沢城を目の前に、万策尽きたというのが実情でしょう。  7月、軍事首長2人を従えて「 田村麻呂 」は上京し、裁決は公卿達に委ねられました。  「 田村麻呂 」は2人の助命を願い出、蝦夷を「 馴化( じゅんか : 生物が、異なった環境、特に気候の異なった土地に移された場合、その環境に適応するような体質に変わること )」をするには彼等の協力が必要なことを説きましたが、公卿達は国家に抵抗した「 反乱の首謀者 」という認識でしたので、胆沢へ赦免すれば、再び反乱は必定とみて捕捉の上、河内国椙山( 現 大阪府枚方市 )で斬刑に処しました。  時に延暦21年( 802年)8月13日( 旧暦 )のことです。   京都 清水寺に「 阿弖流為と母礼 」の顕彰碑( けんしょうひ : 個人の著名でない功績や善行などを称えて、広く世間に知らしめるために建てられる石碑などのこと )」があります。
画像

上記文章は「 奥州埋蔵文化財調査センター 」、「 松竹 歌舞伎美人 」、「 ウィキペディア 」、「 胆沢町ホームページ 」その他の資料を参考にしています。

【 実際の歌舞伎での阿弖流為は 】
大和朝廷は帝による国家統一のため、帝人(みかどびと)軍を北の地に送り、そこに住む民 蝦夷(えみし)に戦を仕掛けていた。   その頃、都では、蝦夷の「 立烏帽子(たてえぼし)党 」と名のる盗賊一味が人々を襲っていた。   それを止める一人の踊り女。    彼女こそ立烏帽子、女だてらの立烏帽子党の頭目( 七之助 )だった。   町を襲う盗賊が自分たちの名を騙る偽者であること暴くため変装していたのだ。   そこに都の若き役人、坂上田村麻呂( 勘九郎 )もかけつける。   更に「 北の狼 」と名のる男も現れ、偽立烏帽子党を捕える。   この事件をきっかけに北の狼と田村麻呂は、互いに相手に一目置くようになる。   だが、北の狼と立烏帽子は、蝦夷が信じる「 荒覇吐( あらはばき )神 」の怒りを買い、故郷を追放された男女だった。   北の狼の本当の名前は「 阿弖流為( 染五郎 )。    故郷を守り帝人軍と戦うため、立烏帽子と二人、蝦夷の里に戻ることにする。    荒覇吐神の怒りをおさめた「 阿弖流為 」は、蝦夷の兵を率い、帝人軍と戦う。   彼の帰還を快く思わぬ蝦夷の男、蛮甲の裏切りにあいながらも、胆沢の砦を取り戻した彼は、いつしか蝦夷の新しい長として一族を率いていく。    一方、田村麻呂も、帝の巫女である姉「 御霊御前(みたまごぜん :萬次郎 )や{ 右大臣藤原稀継( ふじわらのまれつぐ : 彌十郎 )らの推挙により、蝦夷大将軍として、蝦夷との戦いに赴くことになってしまう。   阿弖流為と田村麻呂、互いに認め合う二人の英傑が、抗えぬ運命によって、雌雄を決する時が来ようとしていた・・・・・・。   最後も史実と違った内容となっています。    詳しくは「 新橋演舞場 」へ。    27日が「 千穐楽 」なので、詳細は割愛させて貰います。

【 舞台を見て 】
入り口で、奇妙なリストバンドが全員に配布されていました。  これは 舞台最後に「 ペンライト 」として使われる為です。   歌舞伎( スーパー歌舞伎に近い ) + 従来の演劇に 視覚効果、聴覚効果 更にスピードが、若い俳優の方々の「 アイデア 」がふんだんに取り入れられたといった感じでした。
画像
画像
花道は「 本花道 」と「 仮花道 」と2本
画像
それに「 すっぽん 」、「 せり 」、「 廻り舞台 」、「 ライト効果 」、「 荒事 」、「 煙 」、「 熊のぬいぐるみ 」、「 龍 」そして 「 絶え間ない柝の音 」。  これでもかと 言わんばかりの「 歌舞伎の効果 」が取り入れられ、観客席の後方には「 音声のミキサー 」が
画像
歌舞伎役者は 通常使わない「 マイク 」を使っていました。  若手三人のスピードの「 動 」に対し彌十郎の「 静 」がひときわ目立っていたのが印象的でした。   「 高麗屋 染五郎 」は花道を去るときに「 六法 」を取り入れていましたが、皆さん やんや の喝采です。   「 山ちゃん 」の席は「 仮花道 」の隣でしたが、染五郎が 引っ込む時に「 刀の鞘 」が観客席に 落っこちました。   慌てて 演舞場の方が 拾いに来ていました。   こんな事ってあるんですね。
画像

【 舞台が始まる前の場内風景( 動画)】

そして最後「 定式幕 」が引かれた後、舞台奥には「 ねぶた祭り 」の絵と共に「 津軽三味線 」と共に 観客は「 スタンディング オーベーション 」。  何と 自動的に、例の「 ペンライト 」が「 青と白 」に自動点滅し始めました。   皆さん 立ってペンライトを翳し「 大感激・大拍手 」です。    何かのコンサートに行った気分です。   従来の歌舞伎に慣れている「 山ちゃん 」は 最初面食らいましたが その内に 劇に 引き込まれました。   最近 大御所が 次々と 亡くなる中で、若手が頑張っていました。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 5

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス ナイス

この記事へのコメント