芝増上寺と徳川家霊廟【 其の壱 】
「 東京タワー 」に行った後、増上寺に寄り「 徳川家霊廟 」を参拝することが出来ました。 本日から シリーズで アップ 致します。
増上寺は正式には「 三緑山 広度院増上寺 」と言い、上野の「 寛永寺 」と並ぶ徳川家の菩提寺であります。 浄土宗の大本山で、1333年( 明徳4年 )麹町貝坂(現在の千代田区紀尾井町)に聖聡( しょうそう )によって創建されたのが始まりです。 そして徳川家康が関東を領有する様になってから、1598年( 慶長3年 )に現在地に移転しました。 1611年( 慶長16年 )に広大な敷地を持って完成し、徳川家の寺院としてその威容を誇りました。 現在の規模からは想像も出来ませんが、東京湾から見て、「 大門 」を潜り、「 三解脱門( 仏教用語で、空門・無相門・無願門の三境地を経て仏国土に至る門 )を通ると 小高い丘の上に本殿が建てられて、その威容を誇っていました。又、当時は 高い建物が無かっただけに、東京湾を見渡す「 三解脱門 」は「 ランドマーク 」として、江戸庶民の観光地の役割も果たしていました。そう言ったことでは「 東京タワー 」が有るのも 偶然とは言えません。
ところが、第2次世界大戦のさなか、1945年( 昭和20年 )の戦災で、多くの「 建物 や 墓地 」が消失。 荒れ果てた土地の大部分は売却( 芝プリンスホテル等 )され現在の規模になってしまいました。 古地図によると、消失以前は 現在の「 芝プリンスホテル 」の辺りが「 将軍家の霊廟 」となっていました。戦災前の増上寺の規模です。上野の寛永寺より被害は甚大で、もし 戦災を免れていたら「 世界遺産 登録 」も実現していたでしょう。
消失はしましたが、難を逃れた 以下の建物は「 国の重要文化財 」に指定されています。
・台徳院霊廟 惣門( 芝公園・ザ・プリンスパークタワー東京内 )・台徳院霊廟 勅額門、丁字門、御成門( 左記3棟は埼玉県所沢市
に移築 )
・有章院霊廟 二天門( 芝公園・東京プリンスホテル内 )
1958年( 昭和33年 )から60年( 昭和35年 )に掛けて行われた増上寺の「 徳川将軍家墓所の改葬 」に伴う「 発掘調査 」が、東京大学 鈴木教授、文化財保護委員会等が中心となって調査が行われました。 綿密な調査が行われた後、遺体は東京・桐ヶ谷にて「 荼毘(だび:死者を火葬にすること)」にふされ現墓所( 増上寺本堂裏 )に移転されたのです。現在の増上寺「 徳川家墓所 」の入口の門は、元「 文昭院霊廟( 六代将軍徳川家宣 )」の奥院の門だったのを移築されています。 又 秀忠夫人崇源院霊廟の一部は「 鎌倉 建長寺 」に移築されています。 1985年( 昭和60年 )に、その調査された内容が、東京大学出版会から出版された本「 骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと 」には、将軍や大名、その正室・側室などの人々の頭蓋骨とその簡略な復顔図が添付され解説されているだけでなく、関連する歴史が 記載されています。 同書によれば、確認された将軍達の身長は 殆が160cm以下と江戸時代の庶民の平均に近いが( 江戸時代の成人男子の平均身長はおよそ159cm )、もっとも古い「 第2代将軍 秀忠 」は骨格・筋肉が発達し、いまだ戦国武将としての特徴をよく具(そな)えていたのに比べて、江戸時代中期の「 第6代将軍 家宣 」以降は体格も貧弱になり、特に江戸時代後期の「 第12代将軍 家慶 」や「 第14将軍 家茂 」に至っては顔が面長になり、下顎骨の発達が極めて弱く歯の磨耗がほとんど無くなるなど、貴族的な形質が強く現れるようになったと記されています。 これは最高の上流階級の人々の特権として、殆ど咀嚼( そしゃく : 摂取した食物を歯で咬み、粉砕する事 )する必要の無い柔らかく調理された食事を摂っていた為と推測されます。 この事は将軍のみならず、同じような食生活を送っていた諸大名にも共通するらしいです。
以前「 上野歴史散歩 」で書きましたが、もう一度 復習も兼ねて「 徳川家の霊廟 」に就いて書きました。
徳川家康は「 芝 増上寺 」を徳川家菩提寺として整備、自身の死後は一旦久能山に葬った後に一周忌をもって日光に移し東方の守りを行うので神式で葬るようにと遺言しました。 これが日光東照宮で、天海僧正の影響によります。 二代秀忠は重病に陥ると自身の葬儀に就いて、天海は家康に倣って神となることを勧めましたが、秀忠は「 一門に神は一人でよい 」と言い、菩提寺で先に死んだ妻のお江の眠る増上寺に葬らせました。 以降徳川将軍はこれに倣い、神にはならず仏式で葬られる事になるのです。 「 第三代将軍 家光 」は天海への帰依と家康への尊崇から、天海の寺である「 寛永寺 」で葬儀を行い、廟を立てた上で家康の眠る日光( 輪王寺 )に葬らせました。 「 家綱 」や「 綱吉 」の葬儀と廟は「 家光 」に倣った「 寛永寺 」ということになったのですが、当然本来の菩提寺である「 増上寺側 」は怒り心頭し度々意義申し立てを行いました。 「 第6代将軍 家宣 」はこれを受け入れて、自身の葬儀を増上寺で行わせ、以降はこれが前例となって歴代将軍の墓所は「 寛永寺 」と「 増上寺 」に交替で造営することが慣例化するのです。 ただし、最後の将軍である「 慶喜 」だけは死去したときに「 江戸幕府 」は既になく、更に徳川の社稷(しゃしょく : 社( 土地神を祭る祭壇 )と稷( 穀物の神を祭る祭壇 )の総称で、転じて国家のことを意味する )を家達に譲っていた為に将軍としての祭祀を避けて「 谷中霊園 」に眠っています。
明日【 其の弐 】へと続きます。
増上寺は正式には「 三緑山 広度院増上寺 」と言い、上野の「 寛永寺 」と並ぶ徳川家の菩提寺であります。 浄土宗の大本山で、1333年( 明徳4年 )麹町貝坂(現在の千代田区紀尾井町)に聖聡( しょうそう )によって創建されたのが始まりです。 そして徳川家康が関東を領有する様になってから、1598年( 慶長3年 )に現在地に移転しました。 1611年( 慶長16年 )に広大な敷地を持って完成し、徳川家の寺院としてその威容を誇りました。 現在の規模からは想像も出来ませんが、東京湾から見て、「 大門 」を潜り、「 三解脱門( 仏教用語で、空門・無相門・無願門の三境地を経て仏国土に至る門 )を通ると 小高い丘の上に本殿が建てられて、その威容を誇っていました。又、当時は 高い建物が無かっただけに、東京湾を見渡す「 三解脱門 」は「 ランドマーク 」として、江戸庶民の観光地の役割も果たしていました。そう言ったことでは「 東京タワー 」が有るのも 偶然とは言えません。
ところが、第2次世界大戦のさなか、1945年( 昭和20年 )の戦災で、多くの「 建物 や 墓地 」が消失。 荒れ果てた土地の大部分は売却( 芝プリンスホテル等 )され現在の規模になってしまいました。 古地図によると、消失以前は 現在の「 芝プリンスホテル 」の辺りが「 将軍家の霊廟 」となっていました。戦災前の増上寺の規模です。上野の寛永寺より被害は甚大で、もし 戦災を免れていたら「 世界遺産 登録 」も実現していたでしょう。
消失はしましたが、難を逃れた 以下の建物は「 国の重要文化財 」に指定されています。
・台徳院霊廟 惣門( 芝公園・ザ・プリンスパークタワー東京内 )・台徳院霊廟 勅額門、丁字門、御成門( 左記3棟は埼玉県所沢市
に移築 )
・有章院霊廟 二天門( 芝公園・東京プリンスホテル内 )
1958年( 昭和33年 )から60年( 昭和35年 )に掛けて行われた増上寺の「 徳川将軍家墓所の改葬 」に伴う「 発掘調査 」が、東京大学 鈴木教授、文化財保護委員会等が中心となって調査が行われました。 綿密な調査が行われた後、遺体は東京・桐ヶ谷にて「 荼毘(だび:死者を火葬にすること)」にふされ現墓所( 増上寺本堂裏 )に移転されたのです。現在の増上寺「 徳川家墓所 」の入口の門は、元「 文昭院霊廟( 六代将軍徳川家宣 )」の奥院の門だったのを移築されています。 又 秀忠夫人崇源院霊廟の一部は「 鎌倉 建長寺 」に移築されています。 1985年( 昭和60年 )に、その調査された内容が、東京大学出版会から出版された本「 骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと 」には、将軍や大名、その正室・側室などの人々の頭蓋骨とその簡略な復顔図が添付され解説されているだけでなく、関連する歴史が 記載されています。 同書によれば、確認された将軍達の身長は 殆が160cm以下と江戸時代の庶民の平均に近いが( 江戸時代の成人男子の平均身長はおよそ159cm )、もっとも古い「 第2代将軍 秀忠 」は骨格・筋肉が発達し、いまだ戦国武将としての特徴をよく具(そな)えていたのに比べて、江戸時代中期の「 第6代将軍 家宣 」以降は体格も貧弱になり、特に江戸時代後期の「 第12代将軍 家慶 」や「 第14将軍 家茂 」に至っては顔が面長になり、下顎骨の発達が極めて弱く歯の磨耗がほとんど無くなるなど、貴族的な形質が強く現れるようになったと記されています。 これは最高の上流階級の人々の特権として、殆ど咀嚼( そしゃく : 摂取した食物を歯で咬み、粉砕する事 )する必要の無い柔らかく調理された食事を摂っていた為と推測されます。 この事は将軍のみならず、同じような食生活を送っていた諸大名にも共通するらしいです。
以前「 上野歴史散歩 」で書きましたが、もう一度 復習も兼ねて「 徳川家の霊廟 」に就いて書きました。
徳川家康は「 芝 増上寺 」を徳川家菩提寺として整備、自身の死後は一旦久能山に葬った後に一周忌をもって日光に移し東方の守りを行うので神式で葬るようにと遺言しました。 これが日光東照宮で、天海僧正の影響によります。 二代秀忠は重病に陥ると自身の葬儀に就いて、天海は家康に倣って神となることを勧めましたが、秀忠は「 一門に神は一人でよい 」と言い、菩提寺で先に死んだ妻のお江の眠る増上寺に葬らせました。 以降徳川将軍はこれに倣い、神にはならず仏式で葬られる事になるのです。 「 第三代将軍 家光 」は天海への帰依と家康への尊崇から、天海の寺である「 寛永寺 」で葬儀を行い、廟を立てた上で家康の眠る日光( 輪王寺 )に葬らせました。 「 家綱 」や「 綱吉 」の葬儀と廟は「 家光 」に倣った「 寛永寺 」ということになったのですが、当然本来の菩提寺である「 増上寺側 」は怒り心頭し度々意義申し立てを行いました。 「 第6代将軍 家宣 」はこれを受け入れて、自身の葬儀を増上寺で行わせ、以降はこれが前例となって歴代将軍の墓所は「 寛永寺 」と「 増上寺 」に交替で造営することが慣例化するのです。 ただし、最後の将軍である「 慶喜 」だけは死去したときに「 江戸幕府 」は既になく、更に徳川の社稷(しゃしょく : 社( 土地神を祭る祭壇 )と稷( 穀物の神を祭る祭壇 )の総称で、転じて国家のことを意味する )を家達に譲っていた為に将軍としての祭祀を避けて「 谷中霊園 」に眠っています。
明日【 其の弐 】へと続きます。








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