皇居東御苑 散策
昨日( 23日 )友人と 築地で 何時もの「 海老丼 」を食べた後、炎天下( 34℃ 前後 )皇居の東御苑( 64,000坪 皇居の 約 1/3 )を 散策してきました。
最初は 築地から 大手門まで 歩いて行く予定でしたが、何しろ 暑いので、銀座から「 丸ノ内線 」で「 大手町 」まで 2駅であったが、地下鉄で移動。 大手町は 何しろ 複数の地下鉄が乗り入れて 巨大な 地下道で 結ばれているが、「 C13番 」窓口で、地上に出ると 丁度 目の前に 内堀経由で 皇居「 大手門 」を望むことが出来ます。
「 皇居東御苑 」は 月曜日と金曜日以外 時期によって異なり 9時から 午後4時( 入園時間 )頃まで 入園 出来ます。出入りは「 大手門 、 平川門 、 北桔( はね )橋門 」の3門から 出入りできる。 大半の人達は 大手門 から 出入されているみたい( 銀座 ・ 東京 に近いからか )です。 詳細はお調べ下さい。
まず 大手門( 地図 ① )の渡櫓( わたりやぐら )を抜けると 左側に守衛所があり( 他の2つの門も同じ )ここで 入園のカードを貰います。 帰りに 返せばOKです。
右前方に、三の丸休憩所( 地図 ③ )があり 簡単なガイドブックを入手出来ます。 又「 皇居東御苑 ガイドブック( 700円 )」を購入すると 各見所が 説明されているらしい( 私は購入しませんでしたが )。
更に進むと両サイドに大きな石垣が現れます。 ここは「 大手三の門 」があった場所で、別名「 大手下乗門 」とも呼ばれ、徳川御三家以外の大名達はここで「 籠 」を降りなければならなかったらしいです。
そこを通ると 右側に「 同心番所 ( 地図 ④ ) 」がある。 ここは 「 大手三の門 」の警護ををする侍達の詰め所で、「 切り妻屋根 」の三角の頂点に 「 葵の紋 」を見る事が出来ます。 まぶしくって 判りませんでしたが。
ここから 時計回りに 中を散策しました。 すぐ左に「 百人番所( 地図 ⑤)」が現れる。 ここは 当時 「 根来組 」、「 伊賀組 」、「 甲賀組 」、「 二十五騎組 」の4つのグループ( 与力 二十人、同心 百人 )が二十四時間 警護をしていたらしいです。 写真は 進行方向 反対側から撮しています。
中の門( 地図 ⑥ )から なだらかな坂を上がると 右手に「 大番所( 地図 ⑦ )」が 見えますが、この番所が 本丸に登城する 最後の番所となります。
坂を登り切ると「 本丸の跡 ( 地図⑫ )の芝生 」 と 「 大奥の跡( 地図 ㉓) の芝生 」を通して 「 天守台 」の石垣が見られます。
その芝生の 左側に沿って歩くと 「 松の大廊下跡( 地図 ⑬)」があります。 そうです「 浅野内匠頭 」の刃傷沙汰として、後に 芝居や映画( 忠臣蔵 )で有名になった場所です。 将軍が大名達との拝謁の儀式にとして使った 本丸の中の広間と、将軍が 個別に対面する部屋( 白書院 )とを繋ぐ廊下で、幅5m、長さ15mもあったと言われていますが、今は 石碑と案内板のみです。 ちょっとがっかり。
元 大奥跡を過ぎると「 天守閣 」の跡の「 天守台( 地図 ⑳) 」が見えます。 江戸城の天守閣は三つありましたが、この天守閣は 最終「 三代将軍 家光 」の時代「 1638年( 寛永十五年 )」に 改築 完成 。 壁は黒色で、屋根は 銅葺きの威厳のあるもので、五層六階建、天守台はほぼ40m四方、天守閣の高さは58mだったらしいです。 しかし「 明暦の大火 」で消失し 復興工事は「 前田家 」が担当したが、通常 江戸城の「 石垣は伊豆の 黒っぽい安山岩 」が大半であったが、外様の意地で 瀬戸内海から 白っぽい 「 花崗岩 」で 築いたが、江戸の町の復興を優先する事で、天守閣は築かれず 今に至っている。 天守閣が出来た頃は 東京湾 経由で、神田川から周囲を威圧する 天守閣は 見事で 徳川のステータスシンボルであったのでしょう。 石垣の石の一部に「 矢穴 」がありました。 大夫 実家の庭石の矢穴より 小さかったです。
天守台から 今来た方角に 大奥跡と本丸跡を 見下ろす事が出来ます。
話は 脱線するが、京都実家の 石垣は NPOの方に教えて戴いたが、兵庫県 六甲の 赤御影石、庭の石も 全て 瀬戸内海から 淀川経由で 運ばれて来たらしい。
天守台を降りて すぐに「 北桔( はね )橋門 ( 地図 ㉑)」が見られます。
そこを通り過ぎると 次に 「 平川門( 地図㉜)」へと出ます。 平川門に掛かっている橋の欄干の擬宝珠( きぼし )は「 江戸時代 」からの古いものであり棟梁達の名前が 刻み込まれています。 「 平川門 」は江戸城の「 鬼門 」の方角に当たり、死人、罪人はこの門から運び出されたらしいです。 当然「 浅野内匠頭 」もここから出されているのでしょう。 地図から見てお判りの通り「 大奥 」から江戸場外に出る一番近い門で、「 奥女中 」がよく使い、別名「 お局御門 」とも呼ばれていました。 門は 明け六つ( 日の出 午前6時頃 )開門、暮れ六つ( 日の出 午後6時頃 )閉門となっているが、三代将軍 家光の乳母「 春日局 」が 閉門に間に合わず、一晩 ご一行は 門外で過ごしたという 有名な噺がある。 門番は お咎めも無く、良く警護をしたとの事で、跡で ご褒美が出たらしいです。
ここで 天神壕 に沿って 戻り、 地図の㉝;、菖蒲園㊱、新雑木林㊲から「 同心番所 」に戻ります、猛暑の為に 結構歩き疲れました。
ここ休憩所( 地図③ )で 水分補給を行った。 守衛所で 預かった カードを返し、大手門から出ました。 警備の方と雑談していましたが、お壕には 白鳥以外 鮒 ・ 鯉 ・ 亀 ・ スッポン 等が生息し 亀 等は 上に 上ってくるらしいです。
足早に歩くと 1時間強の コースであるが、じっくり見ると数時間は掛かるであろう。 まあ 皇居の 1/3 の中の ほんの わずかな箇所を見ましたが、やはり 大きい。 今回は 暑かったので 主立った箇所しか 見学出来ずであったが、涼しくなって もう少し 江戸城の事を勉強して尋ねたい。 トイレ等 完備されており、飲み物の販売機も設置されているので、本を片手に 歩くと良いのでは。 結構 外国の方々の 見学者が多く見られマナーも良かったが、相変わらず 「 中国人観光客 」のマナーの悪さが 目につく。
丁度 桔梗壕の石垣が修復工事されていたが、昔は 人力だったのだから 大変であったろう。 ただ 目の前まで 海があったので、結構 「 大きな石 」も簡単に運ぶことが可能だったのであろう。
辰巳櫓( たつみやぐら )を右手に見ながら左折すると 東京駅の正面が見られます。
東京駅は10月に改修 復元工事が完成の予定らしいです。 東京駅の喫茶店で 又々 水を補強して帰りました。 良い運動であったが、本当に暑かった。
参考書 : 江戸城を歩く
最初は 築地から 大手門まで 歩いて行く予定でしたが、何しろ 暑いので、銀座から「 丸ノ内線 」で「 大手町 」まで 2駅であったが、地下鉄で移動。 大手町は 何しろ 複数の地下鉄が乗り入れて 巨大な 地下道で 結ばれているが、「 C13番 」窓口で、地上に出ると 丁度 目の前に 内堀経由で 皇居「 大手門 」を望むことが出来ます。
「 皇居東御苑 」は 月曜日と金曜日以外 時期によって異なり 9時から 午後4時( 入園時間 )頃まで 入園 出来ます。出入りは「 大手門 、 平川門 、 北桔( はね )橋門 」の3門から 出入りできる。 大半の人達は 大手門 から 出入されているみたい( 銀座 ・ 東京 に近いからか )です。 詳細はお調べ下さい。
まず 大手門( 地図 ① )の渡櫓( わたりやぐら )を抜けると 左側に守衛所があり( 他の2つの門も同じ )ここで 入園のカードを貰います。 帰りに 返せばOKです。
右前方に、三の丸休憩所( 地図 ③ )があり 簡単なガイドブックを入手出来ます。 又「 皇居東御苑 ガイドブック( 700円 )」を購入すると 各見所が 説明されているらしい( 私は購入しませんでしたが )。
更に進むと両サイドに大きな石垣が現れます。 ここは「 大手三の門 」があった場所で、別名「 大手下乗門 」とも呼ばれ、徳川御三家以外の大名達はここで「 籠 」を降りなければならなかったらしいです。
そこを通ると 右側に「 同心番所 ( 地図 ④ ) 」がある。 ここは 「 大手三の門 」の警護ををする侍達の詰め所で、「 切り妻屋根 」の三角の頂点に 「 葵の紋 」を見る事が出来ます。 まぶしくって 判りませんでしたが。
ここから 時計回りに 中を散策しました。 すぐ左に「 百人番所( 地図 ⑤)」が現れる。 ここは 当時 「 根来組 」、「 伊賀組 」、「 甲賀組 」、「 二十五騎組 」の4つのグループ( 与力 二十人、同心 百人 )が二十四時間 警護をしていたらしいです。 写真は 進行方向 反対側から撮しています。
中の門( 地図 ⑥ )から なだらかな坂を上がると 右手に「 大番所( 地図 ⑦ )」が 見えますが、この番所が 本丸に登城する 最後の番所となります。
坂を登り切ると「 本丸の跡 ( 地図⑫ )の芝生 」 と 「 大奥の跡( 地図 ㉓) の芝生 」を通して 「 天守台 」の石垣が見られます。
その芝生の 左側に沿って歩くと 「 松の大廊下跡( 地図 ⑬)」があります。 そうです「 浅野内匠頭 」の刃傷沙汰として、後に 芝居や映画( 忠臣蔵 )で有名になった場所です。 将軍が大名達との拝謁の儀式にとして使った 本丸の中の広間と、将軍が 個別に対面する部屋( 白書院 )とを繋ぐ廊下で、幅5m、長さ15mもあったと言われていますが、今は 石碑と案内板のみです。 ちょっとがっかり。
元 大奥跡を過ぎると「 天守閣 」の跡の「 天守台( 地図 ⑳) 」が見えます。 江戸城の天守閣は三つありましたが、この天守閣は 最終「 三代将軍 家光 」の時代「 1638年( 寛永十五年 )」に 改築 完成 。 壁は黒色で、屋根は 銅葺きの威厳のあるもので、五層六階建、天守台はほぼ40m四方、天守閣の高さは58mだったらしいです。 しかし「 明暦の大火 」で消失し 復興工事は「 前田家 」が担当したが、通常 江戸城の「 石垣は伊豆の 黒っぽい安山岩 」が大半であったが、外様の意地で 瀬戸内海から 白っぽい 「 花崗岩 」で 築いたが、江戸の町の復興を優先する事で、天守閣は築かれず 今に至っている。 天守閣が出来た頃は 東京湾 経由で、神田川から周囲を威圧する 天守閣は 見事で 徳川のステータスシンボルであったのでしょう。 石垣の石の一部に「 矢穴 」がありました。 大夫 実家の庭石の矢穴より 小さかったです。
天守台から 今来た方角に 大奥跡と本丸跡を 見下ろす事が出来ます。
話は 脱線するが、京都実家の 石垣は NPOの方に教えて戴いたが、兵庫県 六甲の 赤御影石、庭の石も 全て 瀬戸内海から 淀川経由で 運ばれて来たらしい。
天守台を降りて すぐに「 北桔( はね )橋門 ( 地図 ㉑)」が見られます。
そこを通り過ぎると 次に 「 平川門( 地図㉜)」へと出ます。 平川門に掛かっている橋の欄干の擬宝珠( きぼし )は「 江戸時代 」からの古いものであり棟梁達の名前が 刻み込まれています。 「 平川門 」は江戸城の「 鬼門 」の方角に当たり、死人、罪人はこの門から運び出されたらしいです。 当然「 浅野内匠頭 」もここから出されているのでしょう。 地図から見てお判りの通り「 大奥 」から江戸場外に出る一番近い門で、「 奥女中 」がよく使い、別名「 お局御門 」とも呼ばれていました。 門は 明け六つ( 日の出 午前6時頃 )開門、暮れ六つ( 日の出 午後6時頃 )閉門となっているが、三代将軍 家光の乳母「 春日局 」が 閉門に間に合わず、一晩 ご一行は 門外で過ごしたという 有名な噺がある。 門番は お咎めも無く、良く警護をしたとの事で、跡で ご褒美が出たらしいです。
ここで 天神壕 に沿って 戻り、 地図の㉝;、菖蒲園㊱、新雑木林㊲から「 同心番所 」に戻ります、猛暑の為に 結構歩き疲れました。
ここ休憩所( 地図③ )で 水分補給を行った。 守衛所で 預かった カードを返し、大手門から出ました。 警備の方と雑談していましたが、お壕には 白鳥以外 鮒 ・ 鯉 ・ 亀 ・ スッポン 等が生息し 亀 等は 上に 上ってくるらしいです。
足早に歩くと 1時間強の コースであるが、じっくり見ると数時間は掛かるであろう。 まあ 皇居の 1/3 の中の ほんの わずかな箇所を見ましたが、やはり 大きい。 今回は 暑かったので 主立った箇所しか 見学出来ずであったが、涼しくなって もう少し 江戸城の事を勉強して尋ねたい。 トイレ等 完備されており、飲み物の販売機も設置されているので、本を片手に 歩くと良いのでは。 結構 外国の方々の 見学者が多く見られマナーも良かったが、相変わらず 「 中国人観光客 」のマナーの悪さが 目につく。
丁度 桔梗壕の石垣が修復工事されていたが、昔は 人力だったのだから 大変であったろう。 ただ 目の前まで 海があったので、結構 「 大きな石 」も簡単に運ぶことが可能だったのであろう。
辰巳櫓( たつみやぐら )を右手に見ながら左折すると 東京駅の正面が見られます。
東京駅は10月に改修 復元工事が完成の予定らしいです。 東京駅の喫茶店で 又々 水を補強して帰りました。 良い運動であったが、本当に暑かった。
参考書 : 江戸城を歩く


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