山ちゃんの徒然日記

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zoom RSS 有朋自遠方来、不亦楽乎 旅游和食品【 日光山輪王寺、日光東照宮、日光二荒山神社-1 】

<<   作成日時 : 2018/06/20 05:00   >>

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今日から シリーズで 旅行中少し遠出をし「 日光東照宮 」に参拝した話を書きます。  永い間、関東に住んでいながら一度も「 日光東照宮 」を訪れたことがありません。  徳川家のお墓は「 日光東照宮( 久能山東照宮 )」、「 芝増上寺 」、「 東叡山寛永寺 」そして「 谷中霊園 」に分かれています。  今回の旅行のテーマ「 江戸の文化を知る 」で「 芝増上寺 」、「 東叡山寛永寺 」を訪ねた事を書きましたが、良い機会だったので、日帰りで「 日光東照宮 」を尋ねることにしました。  数日の旅行の中で、唯一 帰り際に雨が降りました。  と言っても傘が必要な雨では無かったですが。  又 日光関係だけ 最初の写真を変更しました。
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幸いこのコースは 旅行のメンバーの一人「 かっちゃん 」が一度訪ねたことがあるので、電車の切符から現地のスケジュール迄お願いした次第です。  ここで「 日光 」のことに就いて触れます。  

【 一大霊場 日光の歴史 】
平成11年( 1999 )に、ユネスコの世界遺産( 日本では10番目 )に登録された一大霊場である「 日光の社寺 」は、「 日光【「 日光東照宮 」、「 日光山輪王寺( りんのうじ )」、「 日光二荒山神社( ふたらさん )」】から成っています。  明治元年( 1869 )の「 神仏分離 」により、今迄103棟( 国宝9棟、重要文化財94棟 )あった社寺は、神社の日光東照宮( 40棟 )、日光二荒山神社( にっこうふたらさんじんじゃ 23棟 )、そして寺院の日光輪王寺( りんのうじ 38棟 )、その他2棟 の「 二社一寺 」に分立しました。   

「 日光( 二社一寺 ) 」の起源は、下野国( 現 栃木県真岡市 )に生まれた僧「 勝道上人 」が
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天平神護2年( 766 )に建立した「 四本龍寺( 以前は日光二荒山神社の本宮として存在していましたが、現在では日光山輪王寺の一部 )」だと伝えられています。
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日本人は古来より山を敬って来ました。  当時は観音信仰が盛んで、「 勝道上人 」は男体山の頂上に観音様の浄土があると信じ、天応2年( 782 )山頂に小さな祠( ほこら、現在の日光二荒山神社の奥宮 )を建てました。  延歴9年( 790 )に本宮神社が創建され、これが「 日光二荒山神社 」の始まりとされています。  日光の信仰の中心は古くから男体山であるのは変わりません。  安土桃山時代に一時期衰退した「 輪王寺 」を再建したのは、慶長18年( 1613 )に貫主( かんす )となった「 天海大僧正( 慈眼大師 )」です。
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政治・経済にも長けた人物で、徳川家のブレーンとして、初代家康、二代秀忠、三代家光に仕えました。  日光東照宮の造営にも深く関わり、現在の日光山内の基礎を作り上げました。

日光東照宮は、元和3年( 1617 )徳川初代将軍徳川家康公を御祭神にお祀りした神社です。  家康は、天文11年( 1542 )12月26日に、三河国岡崎城(愛知県岡崎市)で誕生。  戦国乱世を平定し 260年も続く江戸幕府体制を確立しました。  元和2年( 1616 )4月17日 駿府城( 静岡県静岡市 )にて75歳の生涯を終え、遺命によって遺骸は直ちに久能山に葬られ、同年「 久能山東照宮 」の完成を見ました。  そして一年後の元和3年に久能山より現在の地に移され祀られたのです。  

日光では同年4月に社殿が完成し、朝廷から「 東照大権現 」の神号と「 正一位 」の位階の追贈を受け、4月8日 奥院廟塔に改葬され、家康死去の1周忌にあたる4月17に「 遷座祭 」が行われ 第二代将軍秀忠をはじめ、公武参列のもとに行われ「 東照社 」として鎮座されたのです。  

寛永11年( 1634 )には、第三代将軍 徳川家光が東照社詣でをし、寛永13年の「 21年神忌 」に向けて「 寛永の大造替( ぞうたい、社寺などの建物をつくりかえること ) 」が始められ、今日見られる様な、荘厳な社殿へと「 大規模改築 」が行われました。  総奉行( 日光造営奉行 )は「 秋元泰朝 」、普請は、江戸はもとより京都や大阪からも集められた宮大工達が、作事方大棟梁「 甲良宗広一門 」の指揮下で務めました。  正保2年( 1645 )に朝廷から宮号が授与されて「 東照社 」から「 東照宮 」に改称されました。  当時のお金で、大規模な造替には 56万8千両と銀100貫が投じられたとされています。  貨幣価値は時代により変わりますが、大雑把に 1両 = 1万円 で計算すると・・・ となります。  当時の幕府は 金( 佐渡 )の産出も豊富で財政的に裕福だったのでしょう。

家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言からで、金地院崇伝の日記である「 本光国師日記 」には「 遺体は久能山に納め、( 中略 )一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し神として祀ること。  そして、八州( 武蔵国、相模国、上総国、下総国、安房国、上野国、下野国、常陸国の八国、大雑把に関東地域 )の鎮守となろう 」と残されています。( 家康は 生涯一度も日光を訪れた事はありません。  これは 陰陽道 や 風水 に精通した天海大僧正の差配によるものだとされています。 )  家康が目指した「 八州の鎮守 」とは、日本全土の平和の守り神でもあるのです。  家康は、不動の北辰( 北極星 )の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたと伝えられています。  又江戸城から見て「 東叡山寛永寺 」、更に「 日光東照宮 」は「 鬼門 」の方角に位置し、ガッチリと江戸を守っているのです。

平成25年( 2013 )から5年間、「 平成の大修理 」が陽明門でも行われています。  現在「 日光山輪王寺 」の三仏堂の改修が行われています。

注記1
徳川家康の遺骸は、久能山東照宮 か 日光東照宮のどちらに安置されているのかに就いて諸説ありますが、日光東照宮とされているのが一般的ですが、産経新聞に下記の記事がありました。  しばしば話題となるのが、家康の御霊を久能山から日光に移した際、遺体も移したか否かで、改葬は「 大化の改新 」で知られる 藤原鎌足の死の1年後、摂津から大和に遺体を移した故事に習ったものとされている。  「 遺体が移ったと考えるのが自然 」とみる識者もいる。  ただ 久能山東照宮の落合宮司は「 家康公は今でもここに眠っていると思っている 」と話す。  「 四角い棺の中に正装して座し、西の方を向いているはず。  遺体を日光に運んだのなら、久能山に大きな墓を建てる必要はなかった 」と。  改葬を取り仕切った 天海大僧正は「 あればある無ければなしと駿河なる くのなき神の宮うつしかな 」という和歌を残していることもその証だと言う。  「 くのなき 」は「 躯( く )= むくろ = のなき 」と読めるからである。  久能山の神霊も日光の奥宮も、これまで発掘調査は行われていない。  いずれにせよ「 御霊は久能山と日光にあり、人々を見守っているのには間違いない 」

注記2
日光といえば 日光東照宮「 徳川家康 」が思い浮かびますが、もう一つ忘れてならないのは「 日光山輪王寺 」に「 三代将軍 徳川家光 」の墓もあるということです。  慶安3年( 1650 )に 家光は病気となり、諸儀礼を家綱に代行させ、翌年4月に江戸城内で享年48歳死去しました。 遺骸は遺言により東叡山寛永寺に移され、日光の輪王寺に葬られました。  同年5月には「 正一位 太政大臣 」が追贈されました。  法名は「 大猷院 」。  翌 承応元年( 1653 )には「 大猷院廟 」が造営されました。  今回は時間の都合で訪れていません。  もう一度訪ねてみたいものです。

さて これから 実際に「 日光東照宮 」を訪ねたことを書きます。  

自宅近くなら 撮り忘れした場合は 直ぐに行けますが、日光迄は 度々行ける距離では無いので、以前放送された「 ブラタモリの日光編 」で予習。  又撮る場所を事前にチェックしておきましたが、結果的に撮れ無かったのが数カ所ありました。

曇り空の中、東武鉄道の浅草駅発9時の特急列車「 リバティけごん11号 」に乗車。  隅田川を渡り 東京スカイツリーを見て数十分も経つと田園地帯をひたすら「 東武日光駅 」に向かって走り続けます。
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乗車は約2時間。  事前に「 かっちゃん 」が取り寄せてくれたパンフレットと地図でお勉強です。
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東武日光駅に到着し、ここから 表参道迄 バスで移動です。  待つ間 駅前を見ますと お土産屋さんと「 湯葉 」が食べられる店が方々に見られます。  湯葉料理が多かったですね。
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バスは10分程度で「 表参道入り口 」に到着します。  下車後 かっちゃんが取り寄せてくれた地図に沿って紹介します。  地図の赤色の線は、事前に経路を記入してくれていました。  ありがたや!!
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【 日光山輪王寺 三仏堂( 重要文化財 世界遺産 )と大護摩堂 】
江戸時代、天海大僧正( 慈眼大師 )が住職となり、山王一実神道( 天台宗 )の教えで「 徳川家康 」を「 東照大権現 」として日光山に迎え祀ります。  「 輪王寺( りんのうじ )」の称号が天皇家から勅許され、更に慈眼大師、三代将軍「 徳川家光 」が新たに祀られ、「 日光門主 」と呼ばれる輪王寺宮法親王( 皇族出身の僧侶 )が住し、宗門を管領することになりました。 法親王は14代を数え、幕末に及びました。  

本堂( 三仏堂 )、大猷院、慈眼堂、常行堂、中禅寺、大護摩堂、四本龍寺等のお堂や本坊、更に15の支院を統合して出来ており、その全体を「 日光山輪王寺 」と総称します。
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境内地は大きく分けて、地図中央の「 山内( さんない。標高 約630m )」と、 地図左の「 いろは坂 」を登った「 奥日光( 標高 約1、300m )」の2箇所となります。  今回は 時間の都合で「 三仏堂 」のみの見学です。  50年ぶりの大修理の最中でした。
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全体が網に覆われていますが、輪王寺の本堂は日光山随一、東日本では最も大きな木造の建物で、平安時代に創建された全国でも数少ない天台密教形式のお堂です。  現在の建物は、正保2( 1645 )年、徳川第三代将軍家光によって建て替えられました。  三仏堂の前には、推定樹齢500年という、天然記念物に指定されている「 金剛桜( 階段右手 )」が植えられています。  階段を上って三仏堂に入ります。  内陣には、日光三社権現本地仏( 千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音 )という三体の大仏(高さ7.5メートル)と、東照三社権現本地仏( 薬師如来・阿弥陀如来・釈迦如来 )という掛仏の、二組の三尊仏が本尊としてお祀りされています。  写真は撮影禁止のため、ホームページから転用しました。
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・相輪塔
法華経を始め多くの経典が納められている塔です。  鋳銅製で高さ約13m。  寛永20年( 1643 )家光の発願によって「 天海大僧正 」が建造しました。  天台宗の宗祖最澄の事績に「 六所の宝塔 」というのがあり、この宝塔を「 相輪塔 」といいます。  日本を法華経の威力によって守るのに東西南北中総の六ヵ所に建立して魔を除けるという鎮護国家の思想から建てられたもので、東・上野国、西・筑前国、南・豊前国、北・下野国、中・山城国、総・近江国の六ヵ所がそれに当たります。  現存するのは三基で、比叡山、栃木県都賀郡の大慈寺、そして日光山です。( 下野国には二基あることになります。)  「 天海大僧正 」の刻んだ銘文にも東方、ことに関東の繁栄を祈り、鬼神を退散させ、ひいては天下泰平をもたらすために建立するという願いが込められています。
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・大護摩堂
大護摩堂の内陣には、ご本尊「 五大明王( 平安中期作 )を中心に、「 七福神 」や「 十二天 」など30躰の仏様や祖師像が祀られています。  天井には、故「 吉原北宰( 国指定彩色保存選定技術保持者 )」が、2年半の歳月を費やして完成された「 大昇竜 」が描かれています。
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日光山輪王寺を見終わって 再び 参道へと戻ります。
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明日から「 日光東照宮 」に就いてです。

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