山ちゃんの徒然日記

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zoom RSS 港区田町界隈( 薩摩藩 屋敷跡 )を訪ねました

<<   作成日時 : 2018/04/25 05:00   >>

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先週書きました「 芝増上寺 」から 日比谷通りを歩いてJR田町駅迄 徒歩20分程度です。  増上寺から 見ると NECの本社ビル( 通称 スーパータワー )は近くに見えるのですが、以外と距離があります。
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昭和43年( 1968 ) 就職試験を受けたのがこの 旧本社ビル で 「 山ちゃん 」にとっては思いでの場所なんです。
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意外と知られていないのが、此所には「 薩摩藩島津家上屋敷 」があったことです。  「 薩摩藩 」は、江戸時代に薩摩・大隅の2箇国 及び 日向国諸県郡の大部分を領有し、琉球王国を支配下に置いた藩で( 現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部を領有した他、間接的に沖縄県の大部分を服属させました )、加賀藩に次ぐ2番目の大きな藩でした。  港区郷土資料館発行の資料によると 江戸には9箇所もの屋敷を持っていたと記載されています。
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ただこの「 上屋敷 」は、幕末の慶応3年12月25日( 1868年1月19日 )「 焼き討ち 」で消失してしまいました。
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後 この事件が「 戊辰戦争 」の切っ掛けとなっていくのです。  現在は 三菱自動車のショールームの近く、NEC本社ビルの植え込み、そして 三井住友信託銀行芝支天とセレスティンホテル
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の露地の3箇所に 昔を偲ぶ 説明パネルと碑が3箇所あります。  今日はその三箇所に就いて書きました。
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※ 港区郷土資料館発行の資料では「 中屋敷 」に位置づけされています。

その前に 上屋敷・中屋敷・下屋敷 に就いて 簡単に説明します。

江戸時代 幕府の命により 参勤交代で江戸にやって来た各藩が逗留する為、各々 江戸屋敷の敷地を幕府から与えられ、造営したのが江戸上屋敷( 江戸城に近い場所に在りました )の始まりです。  当然ですが敷地は、譜代、外様の区別、石高に応じて場所、広さなどが決められました。  江戸に在る本宅みたいな位置付けですから、江戸に常時住んでいる大名の家族もが住んでいました。  公式な行事や登城の場合の主発点として使用されました。  徳川御三家( 尾張、水戸、紀州 )、譜代外様の大藩などは重要度や家臣も多いので上屋敷だけで収容するのが難しい等の理由で、別宅の造営を認められました。  それが中屋敷、下屋敷の始まりとなるのです。

下屋敷は、複数有る事が多く、藩主の休息所や側室の住居などの他、用途( 上屋敷や中屋敷で消費される物資の生産や藩の物産の集積場 )にあてられる事が多くいわば隠れた屋敷に相当します。 この為 藩主の好みで庭園など上屋敷以上に凝った工事も行われ別荘的な使われ方をした屋敷も存在しました。   詰める家臣も下級のものが当てられますが、上級の家臣はその都度上屋敷から出勤する形が多かったようです。  江戸城からは離れた位置していました。

中屋敷は、持てるのは限られていており、江戸に常駐するなど幕府要職につくものに許されていました。  各々 用務が多いなど必要があったからで、事務所のようなものと考えれられます。  江戸に常時住むことになっていた大名の家族の内、成人した息子、隠居した先代、先代の奥方などが住んでいました。  又、参勤交代などで江戸にやってきた短・中期滞在の藩士たちの宿舎でもありました。  用途から上屋敷や下屋敷に比べて小規模な屋敷が多いらしいです。

【 江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見の碑 】
JR田町駅に近い日比谷通りと第一京浜の交差点付近にあります。  説明では 以下の事が書かれています。
この敷地は、明治維新前夜 慶応4年( 明治元年、1868 )3月14日、幕府の陸軍総裁 勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守る為に、西郷隆盛と会見江戸無血開城を取り決めた「 勝 ・ 西郷会談 」の行われた 薩摩藩屋敷跡にある 由緒ある場所です。
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この蔵屋敷( この碑の建っている所 )の裏は すぐ海に面した砂浜で当時 薩摩の藩国元より船で送られて来る米などが陸揚げされた場所です。  明治5年に 東海道線が敷かれ、更に埋め立てられて 海岸からは遠くなりましたが、この付近は最後まで残った江戸の海岸線です。  落語で有名な「 芝浜の皮財布 」はこの土地が舞台となっています。  歌舞伎でも演じられています。  江戸時代には「 沙濱 」とも呼ばれる干網場となっており、ここで荷揚げされた魚は将軍家にも上納されて 御菜浦の1つ になり、「 御用撰残魚売捌所 」という東海道筋の市は「 雑魚場( ざこば )」の愛称で呼ばれていました。
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碑の左に書かれている「 西郷吉之助 」という方は「 西郷隆盛 」の孫で、第二次佐藤内閣【 昭和43年( 1968 )】で法務大臣を務めました。
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顔と風格が似ています。

【 薩摩屋敷跡 の碑 】
冒頭 書きました NEC本社ビルは 薩摩藩上屋敷跡 と 因幡鹿野藩上屋敷跡 に 跨がって建っています。  その敷地 北側の 植え込みの所に「 薩摩屋敷跡 」と刻まれた碑があります。  これも「 西郷吉之助 」の書によるものです。
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【 芝さつまの道( 記憶の碑 )】
三井住友信託銀行芝支店 と セレスティンホテルの露地 に建っています。  管理は「 セレスティング芝三井ビルディンク 」らしいです。  真ん中に「 芝さつまの道 」と書かれ、その左右各4枚に詳細が書かれています。  右の4枚に就いて 順番に左から右に説明します。( 3枚目と4枚目は纏めて書きました )
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・薩摩島津藩上屋敷図( 寛政2年 1709 )
この場所は、広大な薩摩藩の上屋敷のほぼ中央に位置します。  詳しく見ると屋敷内の部屋割りや蔵、馬屋、庭園之池、池に架かる橋、能舞台などが判ります。  幕末には「 島津斉彬 」が住んでいました。  天璋院篤姫が13代将軍家定に輿入れする際には、この上屋敷に入りましたが、その後 安政2年( 1855 )の「 安政の大地震 」で、上屋敷が被害に合い、渋谷の下屋敷に移りました。
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篤姫は1年余り、下屋敷で過ごした後、安政3年11月11日に江戸城に輿入れしました。
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・今昔散歩重ね地図( 万延元年 1860 )
江戸時代の芝周辺には多くの大名屋敷がありました。  中でも薩摩藩の上屋敷は 周辺地域 最大規模の屋敷であったことが判ります。  上屋敷は 現在の第一京浜から日比谷通りを挟み、三田通り( 桜田通り )まで 東西 約800m、南北 約300m( 約2万2千坪 )の敷地を有していました。
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・江戸切絵図 芝高輪絵図( 安政4年 1857 )
芝周辺の陸地化は、発掘調査の結果 弥生時代の頃には大夫進んでいたことが明らかになりつつあります。  本格的な開発は江戸幕府の成立以降と共にに始まりました。  その頃の海岸線は 現在のJR「 田町駅 」より内陸寄りにあり、この場所一帯は江戸の街造りが進むにつれ、多くの大名屋敷や町屋、寺社などが軒を連ねるようになりました。  又 当時の東海道( 現在の第一京浜道路 )の辺りには、江戸入り、旅立ちの人々のための一服茶屋も建ち並んでいました。
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ほんの僅かな地域の碑を見て回りましたが、つい最近迄 此所に 薩摩藩の上屋敷 が在ったことは知りませんでした。

帰りは JR田町駅から。  この駅のホームからは 新幹線を含め 東海道線も敷かれているので 色んな種類の電車が行き交います。
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