山ちゃんの徒然日記

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zoom RSS 増上寺とその周辺散策【其の参】

<<   作成日時 : 2018/04/18 05:00   >>

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今日は 芝丸山古墳 と 芝東照宮、黒門 に就いて書きました。
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【 芝丸山古墳 】
「 芝公園 」から南側( 田町方向 )を見ると 小高い山があります。  これが東京都指定史跡に指定されている 前方後円墳の「 芝丸山古墳 」です。
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築造は5世紀中頃過ぎ( 4世紀後半との説もあります )とみられ、墳丘長125m( 案内板では106mと記載 )という都内では最大級の規模です。  江戸時代には後円部頂が崩され、広場になっていたとみられています。

明治25年( 1892 )欧州留学を終えた自然人類学者坪井正五郎は日本へ帰国する船上、芝公園内にある丸山の高さに不自然さを感じました。( 当時は 錦絵にもある通り 海岸が直ぐ近く迄 来ていました )  翌年の 坪井が調査をしたところ埴輪や須恵器などの遺物を発見しました。  しかし遺構らしいものは確認出来ず、発見された遺物も周囲の小型円墳由来である可能性も否定出来ませんでした。  昭和54年( 1979 )に東京都指定史跡に指定されました。  古墳の大きさは、墳丘長:約125m、前方部前端幅:約40m、後円部直径:約64m、くびれ部幅:約22mです。
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取り敢えず 一番高いところにいってみようと、急激な階段を上がってみました。  昨年 10月に「 田園調布古墳群 」でも書きましたが、大き過ぎて良く判りません。
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丘の上には 二つの碑がありました。
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一つは「 伊能忠敬の石碑 」で
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伊能忠敬の碑文には 読みにくかったのですが、以下の事が書かれていました。

忠敬先生は1745年( 延享2年 )上總國に生れて下總國佐原の伊能家を嗣ぎ、村を治めて後50歳の時江戸に出て高橋至時のもとで天文暦數の學を究めた先生の卓見と創意とによる測地測量は1800年の蝦夷地奥州街道の實測を始めとして全國津々浦々にまで及び1818年( 文政元年 )江戸八丁堀で74歳をもって歿するまで不屈の精神と不断の努力とによって續けられわが國の全輪郭と骨格とが茲に初めて明らかにされるに至った。  その偉業は引きつがれて1821年大中小の大日本沿海與地全圖が完成せられその精度の高きことは世界を驚嘆せしめた程であり参謀本部測量局の輯成二十万分一地圖は實にこの伊能圖を骨子としたものである東京地學協會はその功績を顯彰して1889年この地に贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表を建設したが不幸にして第二次大戦戰中に失われるに至った仍って今回各方面の協賛を得てこの碑を再建した次第である。

もう一つは トラの彫像で、大野伴睦の句碑のでした。
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【 芝東照宮 】
芝丸山古墳の隣にあるのが「 芝東照宮 」です。
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四大東照宮( 東照大権現たる徳川家康を祀る神社 )の一つで、祭神は徳川家康、神体は徳川家康寿像、旧社格は郷社。  四大東照宮とは 日光東照宮、芝東照宮、久能山東照宮、上野東照宮 を指します。  下の写真は「 上野東照宮 」の唐門と東照宮です。
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徳川家康は今際の際に金地院崇伝、南光坊天海、本多正純を呼び、次のように遺言したとされています。  

「 久能山に納め、御法会を江戸増上寺、靈牌は三州大樹寺、御周忌終て下野国日光山へ小堂を營造、京都には金地院に小堂をいとなみ所司代はじめ武家の輩進拜せしむべし 」

元和2年4月17日( 1616年6月1日 )、家康は駿府城で死去しました。。  柩は久能山に運ばれ、遺言に従って江戸幕府は同年12月( 翌1617年1月 )に久能山に東照社を創建しました。  これに伴い、朝廷は翌元和3年2月21日( 1617年3月28日 )、神社としての東照社に「 東照大権現 」の神号を宣下すると共に正一位を贈位しました。  更に、神格化された家康本人に対しても同年3月9日( 4月14日 )正一位を贈位しています。  幕府は日光にも建設を進め、家康死去から一周忌にあたる同年4月17日( 5月21日 )に遷座祭を挙行し、2つの東照大権現が並立しました。

しかしその後も各地の徳川・松平一門大名家、又 三代将軍徳川家光による諸大名への造営の進言もあって譜代大名や徳川家と縁戚関係がある外様大名家も競って建立し、全国で500社を超える東照宮が造られました( 廃絶されたものを含めると約700社が確認されています )。  正保2年( 1645 )に宮号の宣下があり、東照大権現は東照宮と称するようになりました。 明治維新以後の「 廃仏毀釈 」と相まって廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社とされています。  

「 芝東照宮 」は元 増上寺内の社殿でした。  徳川家康が慶長6年( 1601 )に還暦を迎えた記念に自らの像を刻ませた「 寿像 」を自身が駿府城に於いて祭祀していました。
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元和2年( 1616 )家康は死去に際して「 寿像 」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言しました。  同年10月に着工し翌 元和3年( 1617 )2月に竣工しました。  この社殿は家康の法名「 安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士 」より「 安国殿 」と呼ばれこれが芝東照宮の起源となりました。  その後、3代将軍家光により寛永10年( 1633 )に新社殿が造営され、旧社殿は開山堂となりました。  寛永18年( 1641 )には移転改築がなされ、駿府城より移築された惣門、福岡藩主黒田忠之が寄進した鳥居、本殿の周囲に拝殿、唐門、透塀が造営され豪奢な社殿が整いました。  明治初期に神仏分離令により、増上寺から切り離されて芝東照宮となりました。  本殿は大4年( 1915 )、当時の古社寺保存法に基づき特別保護建造物( 現行法の重要文化財に相当 )に指定されましたが、空襲により「 寿像 」と神木のイチョウを残し、あとは全て焼失し、昭和44年( 1969 )に現在の社殿が再建されました。
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芝東照宮は、以前は増上寺安国殿と呼ばれ「 江戸名所図絵 」にもその姿が見られます。
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本殿の手前右手に大きな「 イチョウ( 都指定 天然記念物 )」が植わっています。
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この「 イチョウ 」は、寛永18年( 1641 )安国殿の再建に際し、三代将軍徳川家光が植えたものと伝えられています。  昭和5年( 1930 )に史蹟名勝天然記念物保存法に基づいて国の天然記念物に指定されましたが、昭和27年( 1952 )に文化財保護法が改正された時、国指定は一旦解除され、その後 昭和31年に東京都の文化財保護条例に基づき指定し直され現在に至っています。  平成5年( 1993 )の調査では、高さ約21.5m、目通り幹囲約6.5m、根元の周囲が約8.33mもあります。  平成14年(2002 )3月29日 東京都教育委員会
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明日は 三解脱門( 三門 )、黒門、御成門、大殿( だいでん )、鐘楼等に就いて書きます。

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