山ちゃんの徒然日記

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zoom RSS 池上本門寺に行って来ました【其の弐】

<<   作成日時 : 2018/04/12 05:00   >>

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今日は「 其の弐 」として「 仁王門 」からスタートです。
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【 仁王門( 山門、三門 ※ )】
仁王門は、慶長13年( 1608 )に徳川2代将軍秀忠公が五重の塔と共に建立されました。  桃山期の豪壮な門として旧国宝に指定されていました。   昭和20年( 1945 )の空襲で焼失する迄は 桃山期の豪壮な門として旧国宝に指定されていました。  昭和52年( 1977 )に再建され、仁王尊は同54年( 1979 )年に新造されました。  中心伽藍へ入る重要な門で、三種の解脱( さとり )を求める者だけが通れます。  毎年、盛大に厳修されるお会式の「 お逮夜( おたいや 10月12日夜 )」の万灯行列が支障なく潜ぐれる様に 通常より下層の桁と梁の高さを上げています。
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仁王門と同時に消失した 旧扁額「 長栄山 」は本阿弥光悦筆によるもので、関東三額の一つでした。  現在の扁額は80世金子日威聖人の揮毫になります。  因みに「 栄 」の字は旧字ですが、伝統的な慣習で、火伏せのため、冠りを「 火 」2つでなく「 土 」2つとしています。
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消失した旧仁王尊は、宗論による古川薬師( 大田区安養寺 )からの勝利尊像で、上田一族の寄進で、和銅3年( 710 )行基菩薩作と伝わっています。  再建された「 仁王門 」には彫刻家「 圓鍔勝三 」が、「アントニオ 猪木( 師匠の力道山が 埋葬されている関係から )」をモデルに制作した仁王像が安置されていましたが、近年修理を機に本殿内に移設されました。  新たに仏師「 原田佳美 」作の仁王像が 平成13年( 2001 )10月に開眼供養が行われ奉られています。
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三門は山門とも称されるが、正式には三解脱門の略です。

【 日朝堂 】
常唱堂、題目堂 共も呼ばれ、寛政11年( 1799 )「 加藤甲斐守 」が建造したものです。 ここに祀られる「 行学院日朝聖人 」は身延山11世で、61歳の時に失明した後に視力を回復したことから、眼病平癒、学業成就の利益があるとされています。  お堂は本門寺の境内に古くからありました。  享保10年( 1725 )頃の「 本門寺絵図 」にも現在の位置に「 常唱堂 」と書かれています。  昭和20年( 1945 )の空襲で焼失しました。  現在のお堂は、昭和47年( 1972 )に新築されたものです。
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【 鐘楼 】
旧梵鐘は、17世日東聖人の時、加藤清正公の娘で御三家紀州藩の「 徳川頼宣公 」の正室となった「 瑤林院 」が、正保4年( 1647 )に寄進したものです。  その後、正徳4年( 1714 )23世日潤聖人の代に改鋳され、当初の銘文が残っている点は貴重で、江戸前期の代表的な形態を示し、その雄大かつ豪快重厚な作風は、都内第一級のものとされています。  空襲で火をかぶり、一部に亀裂と歪みが生じた為に 現在は傍に仮安置されています。  現在の鐘楼は、昭和33年( 1958 )の再建で、総高2.95m、口径1.7mの青銅を鋳造したものです。
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【 手水舎 】
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【 大堂 】
「 祖師 日蓮聖人 」を祀ることから「 祖師堂 」とも呼ばれています。  旧大堂は、本門寺14世日詔の時代 慶長11年( 1606 )加藤清正が母の七回忌追善供養のため建立し、その大きさは 間口25間の堂々たる大建築でした。  清正公が兜を被ったまま縁の下を通ることが出来たと伝えられています。  その壮観さから江戸の人々は「 池上の大堂 」と称し、これに対して、上野( 寛永寺 )は中堂、芝( 増上寺 )は小堂と呼ばれました。  元和5年( 1619 )に焼失。  寛永6年( 1628 )16世日樹の代に、金1万両を用いてほぼ旧規模に再建されました。  宝永7年( 1710 )再び焼失。  24世日等時代の 享保8年( 1723 )8代将軍徳川吉宗の用材寄進により、規模を縮小して再建されましたが、この3代目の大堂は、空襲により焼失しました。  昭和23年( 1948 )に、仮祖師堂と宗祖奉安塔が建設されました。  その後、79世伊藤日定が中心となり全国信徒の寄進を受け、昭和39年( 1964 )に 現在の大堂を再建しました。  現在の大堂は、鉄筋コンクリート造りで屋根は入母屋造。  高さ27mの大建築です。
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「 大堂 」から「 仁王門 」を望みます。  堂内の「 大太鼓 」の音は迫力がありました。  境内に取り付けられた「 ライブカメラ 」で 大堂 を見る事が出来ます。( 画面は 拡大出来ます )
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空襲で焼失した旧堂には本阿弥光悦の筆になる「 祖師堂 」の扁額が掲げられていましたが、再建後は80世金子日威が揮毫した「 大堂 」の扁額が掛かっています。
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内陣中央の大型御宮殿( 建築厨子 )に日蓮聖人の像、所謂「 祖師像 」を奉安し、向かって左に第2世日朗聖人像を、右に第3世日輪聖人像が安置されています。  

外陣の天井画を 昭和41年( 1966 )大田区在住の「 川端龍子画伯 」に委嘱しますが、龍図の完成を見ることなく逝去されましたが、「 奥村土牛画伯 」が眼を点じて開眼供養を遂げられました。
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平成17年( 2005 )4月から、屋根瓦修復及び雨水漏水対策、耐震補強・火事対策等の工事が行なわれ、平成18年( 2006 )4月に工事が完了しました。

【 経蔵 】
最初の経蔵がいつ建てられたか不明ですが、堂内の柱には、江戸後期に広範囲な周辺地域の寄進者の名が刻まれ、「 新編武蔵風土記稿 」によると宝永7年( 1710 )焼失、享保2年( 1717 )24世日等聖人が徳川御三家である「 水戸綱條公 」を大檀那として再建したと伝えられています。  現存のお堂は、前掲本により、34世日謙聖人が日蓮聖人第五百遠忌の天明元年( 1781 )に再建を発願し、3年後の同4年( 1734 )、松平周防守室「 浄心院智光妙受日成禅尼 」と松平播磨守室「 遠紹院妙道日養大姉 」を本願主として再々建したといわれています。  空襲の際も、五重塔・多宝塔・総門などと共に炎上を免れた建物の一つです  江戸中期の本格的かつ大型の経蔵で、輪蔵形式の内部には回転する八角形の書架があり、天海版一切経が収められています。( 現在は別場所にて保管 )  第二次大戦後、大堂再建に伴う旧宗祖奉安殿移設により、元の場所よりやや北側の現在地に移されました。
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【 奉安塔 相輪 】
説明板に以下の事が書かれていました。

東京大空襲で 池上本門寺の大半を消失しました。  戦後直ちに復興事業に着手し、最初に 日蓮大聖人像と御真骨を格護するための奉安塔が、一字一石写経による浄財勧募により 昭和29年( 1954 )4月に建設されました。  奉安塔は防火・防災のため 鉄筋コンクリート造り銅板葺きで、当初は 仮祖師堂の背後( 現在の大堂内陣辺り )に位置しましたが、昭和37年( 1962 )に着工した大道再建工事を機に現在の霊寶殿所在地に撮されました。  昭和39年( 1964 )に大堂が完成した後、しばらくの間は 御霊寶収蔵庫・納経塔等の役割を果たしてきましたが、日蓮大聖人立教開宗750年記念慶讃事業「 霊寶殿 」建立のため 平成11年6月に解体されました。  よって ここに当山の戦後復興に大きな役割を果たした奉安塔の由来とその姿を刻み、相輪を留めて信徒の徳行を讃えるものです。
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下の写真は 解体以前のもので、明治時代に撮影された物と思われます。
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【 霊寶殿 】
立教開宗750年慶讃事業の一環として、平成13年( 2001 )に完成しました。  本門寺が格護している数々の霊宝を永代に亘って保全します。  通常、毎週日曜日に展示品の観覧が出来ます。
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明日は「 其の参 」として「 五重塔 」から書きます。

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