山ちゃんの徒然日記

アクセスカウンタ

zoom RSS 奥浅草を歩く【 旧吉原、其の壱 】

<<   作成日時 : 2018/01/31 05:00   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 8 / トラックバック 0 / コメント 0

昨日迄 山谷堀を歩いて、台東区浅草1丁目にある「 紙洗橋 」迄を書きました。  今日は「 其の壱 」として「 旧吉原 」の歴史、街並み、吉原での遊び方 に就いて書きました。  以前、「 江戸の吉原と花魁( 5シリーズ )」で書いたブログもリンクしておきましたので ご一読下さい。
画像

【 吉原遊郭の概要と歴史 】
吉原は、幕府が公認している 江戸唯一の遊廓で、又 女性達ファッションの最先端発信基地でもありました。  他にも 品川・内藤新宿・深川等、幕府の営業許可を得ていない「 岡場所 」と呼ばれた処もありました。  吉原遊廓の誕生は元和4年( 1618 )「 江戸市内に点在していた遊女屋を一箇所に纏めた方が取り締まり易い 」との幕府の行政的判断と、「 幕府公認で風俗業を独占したい 」との遊郭経営者側との思惑とが一致したことが始まりです。  最初に作られた場所は、日本橋葺屋町( ふきやちょう、現 日本橋人形町3丁目付近、猿若町に引っ越す前の市村座がありました )に隣接する、葭( よし )の茂る二町四方の湿地帯で、吉原という名称は「 葭の原 」から来ているのです。
画像

吉原という名称は当初昼間のみの営業とされた為に、客の多くは武士で( 武士には夜間のみ在宅の義務があった )、吉原の遊女は武士を相手にすべく高い教養を身につけたといわれる。  その後、吉原は明暦3年( 1657 ) 発生した「 明暦の大火 」を切っ掛けに 風紀上の事も考慮した幕府の決断により、浅草日本堤( 現 台東区千束 )の一角に移転しました。  遊郭の経営者達は猛反対しましたが、夜間の営業を認めて貰うことで納得しました。  この為に 引っ越す前の 日本橋 人形町の旧地を「 元吉原 」、浅草の吉原を「 新吉原 」と呼んで区別しているのです。  「 吉原 」は 断らない限り「 新吉原 」の事を言います。
画像
画像

【 吉原遊廓の街並 】
周囲を幅2問( 約3.6m )の堀( 通称 おはぐろどぶ、正式には大溝。  おはぐろの様に黒く濁っており、遊女が化粧の際におはぐろを流したのに因みこう呼ばれました )に囲まれた、東西約330m、南北約250mの独立した場所で、そこに約100軒の引手茶屋と数百軒の遊女屋( 女郎屋、妓楼、青楼とも )が立ち並んでいました。
画像

文化文政の頃には五千人もの遊女が暮らしていたと言われています。  出入り口は「 吉原大門 」の一ヶ所のみで、江戸市中と同様、吉原大門は「 明六ツ( 午前6時 )」に開き、夜四ツ( 午後10時、鐘が四つ鳴る )のが最初の夜四ツ。  ただし吉原は更に2時間の延長営業( 10時では商売にならないので )が認められていたので、拙子木が四ツ鳴る次の夜四ツ( 引け四ツ、実際は午前0時 )で大門が閉まります。  それ迄、客は大門の開いている時間、男性なら自由に往来出来ました。  併せて「 江戸時代の時刻 」もお読み下さい。  但し馬、駕籠の乗り入れと槍の持ち込みは御法度となっていました。  女性は大門切手( 通行証 )がなければ通行不可でした。  勿論、遊女の逃亡を防ぐ為です。  仲の町は、遊女屋を二分して大門から水道尻迄 一直線に伸びる吉原のメインストリートとなっており、通りの両側には、登楼( 遊女屋へ上がる )のための窓口ともいうべき引手茶屋がずらりと並んでいました。  又、宝暦の頃には仲の町から8本の通りが左右に伸びており、大門から入って右側には、手前から江戸町1丁目、揚屋町、京町1丁目の3本の通りが、左側には手前から伏見町、江戸町2丁目、堺町、角町、京町2丁目の5本の通りがありました。  それぞれの通りの両側が遊女屋で、通りに面して張見世があり、格子越しに遊女の品定めができるシステムとなっています。
画像

大門から見て左右の「 おはぐろどぶ 」沿いの通りを各々西河岸( 浮念河岸 じょうねなんがし )、羅生門河岸といい、この2本の通り沿いには局見世( つぼねみせ )、切見世、鉄砲見世などランクの低い遊女屋が長屋形式で配置されていました。  下の錦絵の右下に「 おはぐろどぶ 」が描かれています。
画像

【 吉原へのルート 】
このブログの前に「 待乳山聖天 」や「 今戸橋 」の箇所で「 吉原 」への交通手段に就いて若干触れました。  吉原への代表的な行き方は、浅草橋・柳橋辺りの船宿から「 猪牙舟 」に乗り、大川( 隅田川 )を登って山谷堀で下舟、ここから徒歩または駕籠で「 日本堤 」を吉原へ向かうルートが一番粋な方法とされていました。  もう一つの方法は 陸路で、浅草寺横から駕籠に乗って馬道町、砂利場を抜け日本堤に出るルート。  上野山下から徒歩で浅草田圃を通り、やはり日本堤に抜けるルートなどがありました。  どちらにしても 最後は「 日本堤( 荒川( 隅田川の上流 )の洪水から江戸市中を守るために築かれた堤防。  浅草寺の北、聖天町から箕輪までの間、13丁( 約1.4Km )」を通らなければなりません。
画像
画像

此処から「 衣紋坂( 吉原に行く人達が衣紋をつくろう( 身なりを整える )事に由来します )を下ると右手に「 番所 」と「 高札場 」、左手に「 見返り柳 」があります。  この柳の木は吉原帰りの客が思わず振り返ったからこう呼ばれている有名な柳です。  ここから「 五十軒道 」という「 S字 」に道路が曲がった道を進むと「 吉原大門 」に出ます。  S字に曲がっているのは直接遊郭を見られない様にする為だと言われており、今はこの「 柳( 六代目 )」と「 五十軒道 」と道路だけが残っています。  詳細は「 其の弐 」で。
画像
 
【 遊のランク 】
吉原へ遊びに行くのに用意するのが、お金と「 吉原細見 」。
画像

吉原細見は、年に2回発行されている 今で言う「 吉原のガイドブック 」で、マストアイテムです。  吉原にはどんな遊女屋があって、どの店にはどんな遊女がいて、揚代金( あげだいきん、遊ぶ料金 )は幾ら掛かるか 等が載っている小冊子で大門の手前辺りの本屋で買えたそうです。  ここで遊女屋等のランクに就いて書きます。

大見世=VIP店、中見世=高級店、小見世=スタンダード店と理解すれば分かり易い。  大見世には揚代金2分( 約4〜5万円 )以上の遊女しかおらず、逆に小見世には揚代金1分( 約2万円 )以下の遊女しかいない。
画像

勿論 遊女にもランクがあります。  元吉原時代は太夫、格子女郎、端女郎の3ランクでしたが、その後、格子女郎の下に散茶女郎が加わり、更に吉原の大衆化に伴なって最高格式の太夫と次席の格子女郎が消滅しました。  江戸の後期になると、散茶女郎が更に呼出・昼三( ひるさん )・附廻( つけまわし )の3ランクに分かれ( 以上が花魁 )、その下に座敷持ち、部屋持ちのベテラン、新造と呼ばれる若手が続き、さらに局女郎、切見世女郎、鉄砲女郎がいます。

【 江戸人の遊廓での遊び方 】
以下は最高クラスの新造附呼出( しんぞうつきよびだし )と遊ぶ場合で、原則的に、3回通わなければ関係は結べないのです。
画像

@引手茶屋に揚がる
呼出クラスの遊女は張見世に出ないので、吉原遊びのコーディネーターである引手茶屋に頼んで呼び出して貰います。  酒宴を張りながら、遊女を待ちます。
A迎えに来た遊女と遊女屋ヘ
やがて遊女が新造( 妹役の遊女 )や禿( かむろ、花魁の世話をする6〜14歳の見習い )を連れて花魁道中をしながら迎えに来ます。
B引付座敷で初会を済ます
遊女屋二階の引付座敷で遊女と改めてご対面。  吉原は女性上位の世界なので遊女が上座に座ります。  遊女が客を気に入れば、夫婦固めの盃の儀式を行ない、後は芸者や幣問( ほうかん )を呼んでドンチャン騒ぎ。  遊女はよそよそしく、殆ど口をききません。  勿論床入りも無し。
C裏をかえす
後日、@〜Aの手順を踏んで同じ遊女と再会。  初会に対してこれを裏と言います。  又々芸者や 耕間 を呼んでドンチャン騒ぎ。  遊女は多少打ち解けた様子を見せるものの、酒や料理には口を付けません。  今回も床入りは無し。
D馴染みになる
更に後日、@〜Aの手順を経て同じ遊女と3回目の酒宴。  客はようやく馴染みとなり、客の名入りの箸袋に象牙の箸が用意され、遊女も打ち解けて飲食を共にします。  やがて引け四ツ( 午前0時 )の拍子木と共に宴も終わり遊女の部屋に移って、やっと床入り出来るのです。

【 吉原遊廓遊興費 】
先程 遊び方に就いて書きましたが、吉原で遊ぶには大金が必要です。  吉原細見に「 揚代金1両1分 」と出ていても、当然それだけでは済みません。 まず引手茶屋と遊女屋での飲食代( 台の物一つで1分 )と芸者・幣問の代金が都合3回分。  裏では若い者や、遣り手( やりて、監督役 )に祝儀1分、3回目には遣り手に祝儀を1分、更に床入りの時には、遊女に床花という祝儀( 揚代の2〜3倍 )もはずまなければならない。  結局、新造附呼出と床入りする迄に掛かる費用は12〜13両。  現在の貨幣価値でざっと100万円以上となる。  勿論ランクを下げれば、金額的にはもっと安くなる。  引手茶屋を通さず、張見世で見立てた遊女とそのまま二階へ上がる( 直きづけ、またはつっかけという )ことも可能でした。

【 花魁道中 】
暮六ツ( 午後6時 )、遊女の弾く三味線の清掻( すがかき )が鳴り出して夜の営業がスタートします。( 昼の営業は午後2時から )  やがて引手茶屋の客に呼び出された花魁が、新造や禿を引き連れ、外八文字で歩き出す。  仲の町を何度も往復していれば、三浦屋の高尾太夫、扇屋の花扇や滝川、松葉屋の瀬川、丁字屋の雛鶴、角玉屋の濃紫など、有名どころの花魁に当時は会うことが出来たでしょう。
画像

【 最先端の流行 】
花魁は 当時のファッションの最先端役でした。  吉原の裏手にあった鷲明神の酉の市は有名で、この日は田圃のあぜ道も身動きが出来無い程大変な人出になります。  この日は吉原も一般女性の見物を許しており、加えて、普段は外に出ることのない遊女も、酉の市には客を誘って鷲神社まで行くことが出来るのです。
画像

一般の女性が吉原に足を踏み入れることは困難でありましたが、こういった「 市 」で、花魁を見学する事が出来、女性達は挙って姿格好を似せたと言われています。  下の錦絵の 花魁の 下唇には 緑色の口紅が塗られています。  これは「 笹紅 」と言われていたそうです。  何か現代に通じる物があります。
画像

この花魁の袖は「 アイヌ民族 」のデザインを取り入れた錦絵で、ゴッホも模写したとされています。  このコッホの作品は「 タンギー爺さん 」という名前の名画で、バックに多数の浮世絵が描かれています。  この作品の右下を見て下さい。
画像
画像

以下の三枚の写真は 明治時代初期の花魁で、二枚目には 花魁の左右に 新造と禿が見て取れます。  三枚目は 大門から 仲の町 方向を見た風景写真です。
画像
画像
画像

参考資料 : お江戸の歩き方、ウィキペディア 他

明日は 実際に歩いた「 旧吉原 」に就いて書きます。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 8
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文

リンク先

奥浅草を歩く【 旧吉原、其の壱 】 山ちゃんの徒然日記/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる