山ちゃんの徒然日記

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zoom RSS 奥浅草( 旧猿若町 猿若三座 )を訪ねました

<<   作成日時 : 2018/01/18 05:00   >>

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市川團十郎の銅像を見た後、「 言問( こととい )通り 」に出て、墨田川方面( 言問橋方面 )に歩きます。  

「 浅草寺 」の北側に当たるのが「 奥浅草 」と呼ばれています。  東に隅田川を臨む奥浅草は、浅草寺・言問通りの北側エリアで、歌舞伎の「 江戸三座跡地 」を始め、吉原や数々の寺社が点在する歴史とロマンが感じ取れるエリアです。
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何時もの通り、歩いた所を緑色で記しました。
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今回はその中でも 歌舞伎に縁の「 猿若町 」と「 待乳山聖天 」を訪ね、今日は「 猿若町 」に就いて書きました。  

この奥浅草の内「 猿若町( 現浅草6丁目近辺 )」は、江戸時代の終わり頃 時の老中「 水野忠邦 」を中心とした 改革強硬派は、緩んだ風紀を引き締め幕府を立て直すことを目的とした「 天保の改革 」を開始します。  庶民の娯楽の代表であった歌舞伎も、その取締りの対象となり、歌舞伎興業を潰す事を考えましたが、北町奉行の「 遠山左衛門尉景元( 遠山の金さん )」により一ヵ所( 猿若町 )に集めて取り締まりを強化する方針に変更され決着しました。 当時を代表する 歌舞伎役者 七代目市川團十郎は、贅沢な小道具や衣裳など使用したことなどを咎められ、江戸から追放を命じられたこともありました。

その後、一箇所に集められた三つの大きな歌舞伎小屋( 中村座、市村座、河原崎座 )を中心に、小さな芝居小屋( 歌舞伎・浄瑠璃・文楽 等 )や、飲食の店( 茶屋 )、土産物屋、大道具屋、小道具屋、役者( 士農工商の四段階よりも下の階級の人間とされた )の住居等が集まって[ 天保12年から14年( 1841〜1843 )に掛けて、相次いで移って来ました ]、江戸の娯楽の中心地になりました。  更に「 水野忠邦 」が失脚すると徐々に改革の空気も緩み初めて、益々「 猿若町 」が賑わいを見せ始めます。
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「 猿若 」と名付けられた町名は、江戸歌舞伎芝居の始まりといわれる「 猿若勘三郎( 江戸時代始めの寛永頃の人 )の名前から付けられたといわれています。( それ迄の町名は浅草聖天町と呼ばれていた )  この「 猿若勘三郎 」が今の歌舞伎の名門「 十八世 中村勘三郎 」の先祖に当たります。  良い役者でした。  特に「 籠釣瓶花街酔醒 」、立花屋二階の場で 勘三郎が扮する 佐野次郎左衛門が「籠釣瓶」を抜き、逃げる八ツ橋を切り殺す場は素晴らしかった記憶にあります。
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芝居小屋の配置は
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・一丁目 : 中村座・薩摩座 堺町 ( 現・人形町 )から移転。
       火事により廃座( 明治26年 )
・二丁目 : 市村座・結城座 葺屋町 ( 現・人形町 )から移転。
       以降 失火により廃座( 昭和7年 )
・三丁目 : 河原崎座( 森田座 ) 木挽町 ( 現・銀座東 )から
       移転。以降 震災により廃座( 大正12年 )

中村座、市村座、河原崎座の三つが規模も大きく、芝居櫓を官許されたので、「 猿若三座 」と呼ばれました。
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明治前期になると、興行の賑やかさも無くなり、一方で、寄席や見世物も手軽な娯楽として一層活発に行われるようになり、寄席芸で行われた演目が歌舞伎作品の題材になるなど、様々な娯楽が活発に交流するようになっていきます。  これにより約30数年間にわたる賑わいは( 猿若町時代 )終わりを告げました。  森田座が明治5年新富町( 中央区 )へ、他の二座も鳥越町、下谷二長町( 共に台東区 )へと移り、明治25年には全て他の市中へ移って芝居町としての役目を終えます。  その後、大正の頃から履物屋が多くなり、以後鼻緒・装履・サンダル・靴・皮革等を扱うお店が並ぶ現在の町へと発展して来たのです。  現在では、芝居小道具を扱う「 藤波小道具店 」が僅かに昔の芝居町の名残を留め、「 猿若三座 」の後には、中村座、市村座、河原崎座( 森田座 )跡に碑が建てられています。

ダラダラと書きましたが、言問通りを 隅田川( 言問橋 )方面に向かって歩きます。  途中の個人の方の表札!  えっ 嘘でしょう。
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困ったことに 場所がハッキリ分かりません。  簡単なのは「 Google Map 」で捜せば簡単に見つかるのですが、初めての処に行っても 一度も使った事が有りません。  と言うのは 時間を掛けて歩いて探し回ると 何か新しい物を発見出来るからです。  タイミング良く、「 言問通り 」に「 猿若町 」の案内板が立っていました。
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先を左折すると旧猿若町のメインストリートに出ます。  手前が一丁目で 奥が三丁目となっています。  えっ! こんなに狭いの と言った感じです。
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テレビでみた事の有る「 藤浪小道具 」の会社が右手に見つかりました。
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古地図の 茶色の部分が 現在の「 藤浪小道具 」の場所で、元は薩摩座という「 人形浄瑠璃芝居小屋 」だったのです。  創業者「 藤浪与兵衛 」は、幕府瓦解を機に刀や鎧などを買い集め 明治5年に 歌舞伎に使う「 小道具の貸し出し業 」を開始しました。  現在も演じられている 歌舞伎の小道具は 全てここから調達されています。  以前のブラタモリでは 歌舞伎十発番「 暫 」の鎌倉権五郎 の刀( 2.2m )が披露されていました。
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先に「 猿若町の碑 」が有りました。
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この路を奥に向かって歩くと 左手 一丁目に「 中村座 」の碑、二丁目に「 市村座 」の碑、三丁目に「 河原崎座 」の碑が 当時を偲んで建てられています。  

【 中村座 】
江戸中村座の定式幕は「 黒 ・ 白 ・ 柿色 」で、現在は平成中村座が使用している。
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・錦絵
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・碑 中村座は「 碑 」はありません。
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【 市村座 】
江戸市村座の定式幕は「 黒 ・ 萌葱 ・ 柿色 」で、現在は国立劇場や大阪新歌舞伎座が使用している。中村座の白を萌葱に変更。
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・錦絵
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・碑
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【 河原崎座 】
江戸森田座 / 守田座の定式幕は「 黒 ・ 柿色 ・ 萌葱 」で、現在歌舞伎座や京都南座が使用している。
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・錦絵
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・碑
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中村座は、その後歌舞伎役者の「 十八世中村勘三郎 」が中心となって、浅草・隅田公園内に江戸時代の芝居小屋を模した仮設劇場を設営して「 平成中村座 」と名付け、平成12年( 2000 )11月に歌舞伎「 隅田川続俤 法界坊 」を上演し、復活を計り好評を得ましたが、座主の中村勘三郎が平成24年( 2012 )に亡くなった後、勘三郎の遺志を継いだ長男の六代目中村勘九郎が座主を引き継ぎ、平成26年 実弟の二代目中村七之助、二代目中村獅童と共にアメリカ合衆国・ニューヨークで平成中村座復活公演を行った。
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  この「 平成中村座 」は、「 猿若町 」から歩いて5分程度の隅田公園に「 平成中村座 」の芝居小屋がありました。   数回観に行ったことがあります。
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歌舞伎で使われる「 幕 」に就いて 以前アップした「 歌舞伎雑学「 幕 」の種類 」も併せてお読み下さい。

参考資料:ブラタモリ、東京ディープ 他

徐々に 陽が落ちて寒くなって来たので、再度訪れることにして、次ぎの「 待乳山聖天 」へと移動しました。

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