山ちゃんの徒然日記

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zoom RSS 浅草寺界隈と九代 市川團十郎像

<<   作成日時 : 2018/01/17 05:00   >>

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「 駒形どぜう 」の店を出て、真っ直ぐに「 浅草寺 」の方向に歩くと 左手に「 並木 藪蕎麦 」を見て、 約10分程度で「 雷門 」が見えます。
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何時も大混雑です。  渋谷の「 忠犬ハチ公像 」と同様、ここで待ち合わせる時には 捜すのに苦労します。

この雷門は、慶応元年( 1865 )に消失し、長い間 現在の「 仲見世( 本来は浅草寺への参道 )」通りから 直接「 宝蔵門 」から「 浅草寺 本堂 」へと繋がっていました。  明治36年と昭和30年頃の写真で分かります。
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その後昭和35年( 1960 )に約1世紀ぶりに鉄筋コンクリート造で再建されました。  パナソニックの祖「 松下幸之助 」が浅草観音に祈願して病気平癒した報恩のために寄進したもので、門内には「 松下電器産業( 現パナソニック )」寄贈の大提灯が有名です。  三社祭の時と台風到来の時だけ提灯が畳まれます。  門の右手には風神像、左手には雷神像を安置することから正式には「 風雷神門 」と言いますが 通称「 雷門 」として呼ばれています。
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仲見世は、雷門から宝蔵門に至る 表参道の両側には土産物、菓子などを売る商店が立ち並び、「仲見世」と呼ばれています。 商店は東側に54店、西側に35店を数えます。
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寺院建築風の外観を持つ店舗は、関東大震災による被災後、大正14年( 1925 )に鉄筋コンクリート造で再建されたもので、上のアーケードは開閉式になっており、夏の暑い時期( 7月 〜 9月 )は閉じられています。

途中から「 仲見世 」を一本外れると、芸能人御用達の江戸扇子屋「 荒井文扇堂 」があります。  120年続く老舗で、現在は4代目の「 荒井 修 」さんが一から手作りしており( 追記1 参照 )、特に名だたる「 歌舞伎役者 」はここから扇子を購入しています。  亡くなった「 十八代目 中村勘三郎 」とは40年の交友の仲でした。
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この方が書かれた「 浅草の勘三郎 夢は叶う、平成中村座の奇跡( 2015年4月 小学館 発行 )」と言う本は、勘三郎の歌舞伎への熱意、平成中村座 の立ち上げ等 詳しく書かれており 実に面白い。
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勘三郎の右手が「 荒井 修 」氏です。
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そして その先に 甘味処「 梅園 」があります。  創業 安政元年( 1854 )浅草寺の別院・梅園院の一隅に茶屋を開いたのが始まりで、屋号「 梅園 」もそのゆかりです。  初代は元祖「 あわぜんざい 」で好評を博し、東京名物となり、以来 160余年甘味処として伝統を継承して来た老舗です。
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仲見世から一歩外れた路を歩くと 浅草を再発見出来ます。

その後「 傳法院( でんぼういん )」通りに出ます。
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傳法院
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宝蔵門の手前西側にあり、浅草寺の本坊で、この庭は 小堀遠州の作と伝えられ、都内の寺では唯一見られる「 回遊式庭園 」となっていますが、通常、一般公開はされておりません。
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院内にある天祐庵は表千家不審庵写しの茶室で、江戸時代後期の建立。  元は名古屋にあったそうです。  門は「 公式の行事 」、「 僧侶、将軍 」以外の出入りは閉門となっていたそうです。  この「 傳法院 」の井戸を修復した時に 多くの貝殻が出て、僧侶の方が保管された物を 調べたら 4、340年前( 縄文時代 前期 )の物だったそうです。  当時 この辺りまで、海の入江が来ていたのです。( ブラタモリ より )
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この「 錦絵 」は江戸時代に描かれた「 浅草寺 」の境内とその周辺です。
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そして 仲見世に戻り「 宝蔵門 」
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から「 本堂 」へ。
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この「 五重塔 」は、昭和20年( 1945 )の東京大空襲では焼失し、現在の塔は本堂の西側、寛永8年( 1631 )に焼失した三重塔の跡伝承地付近に場所を移して、昭和48年( 1973 )に再建されたもので鉄筋コンクリート造、アルミ合金瓦葺きで塔自体の高さは約48mあります。
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この辺りから「 東京スカイツリー 」を見上げることが出来ます。
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次の目的は 本堂裏手、観光バスの駐車場近くの、九代目市川團十郎の演じた「 暫 」の銅像です。  何回も 浅草を訪れましたが、この像が在るのは、先程書いた「 浅草の勘三郎・・・・ )」の文中「 浅草の成田屋( 市川宗家 )」で知りました。
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長文になりますが、筆者が 海老蔵( 故 第十二代 市川團十郎、1946–2013 )を偲んで 銅像を建てた回顧録です。 

浅草の成田屋
大正八年( 1919 )に設立され、第二次世界大戦中の昭和19年( 1944 ))11月30日に金属類回収令のため供出させられた九代目市川團十郎の『 暫 』の銅像の話を、私は子どものころから両親に聞かされていた。それは、「 劇聖 」と呼ばれた九代目團十郎の鎌倉権五郎が、市川宗家が創始した「 元禄見得 」を切った姿だ。
私は、見たこともないその像にずっと憧れて大きくなった。
「 下谷、浅草に名像ふたつあり 」といわれていたのに、上野の西郷さんは残され、浅草の『 暫 』の像だけが供出させられたことにも義憤を感じていた。なんとか再建して、平和な時代のシンボルとして守りたいと思っていたのだ。しかし、町でその話をしても「 浅草寺の境内に、そんな大きなものを建てる許可が下りるわけはないだろう 」という意見が多く、この夢は叶いそうもなかった。
昭和57年( 1982 )の夏のことだ。この年は浅草歌舞伎が八月に行われ、『 網模様燈籠菊桐 ( 小猿七之助 )』を市川海老蔵、坂東玉三郎で上演していた。私は楽屋で、あるいは終演後に海老蔵と話す機会が多かった。
「 浅草にあった九代目の『 暫 』の銅像のことは、聞いているでしょ? 」
「 うん、親父は再建したいって、ずっといっていたから、よく聞かされたよ 」
「 僕も両親に、大太刀の柄に子どもが何人かで乗って折ってしまったことや、戦争で鉄砲の弾が足りなくなって供出させられ、溶かされちゃったっていう話を何度も聞かされて、いまあったらいいのにと思っているんです 」
「 でも、難しいだろうね 」
私より歳がふたつ上の海老蔵を、私はいつも「 お兄さん 」と呼んでいた。
「 お兄さんが襲名するのいつ? 」
「 えっ、團十郎を? 」
「 そうですよ 」
「 まだ具体的な話は、決まってないけど 」
「 出来れば、それまでに建てたいよね 」
私は海老蔵と話しているうちに、なぜか銅像を再建できそうな気がしてきた。しかし、それはなんとなくであり、とくに妙案があったわけでもない。遣りのけたいという病気の虫が、ちょっと騒いだだけだ。
翌年1月の浅草公会堂「 初春花形歌舞伎 」は早四年目を迎え、片岡孝夫( 現・仁左衛門 )で『 源平布引滝 』の「 実盛物語 」、
『 初春廓鞘当 』、そして中村勘九郎の『 春興鏡獅子 』であった。
私は父を五十六歳という若さで亡くして店を継いだので、毎年1月は二十か所近い新年会に出席していた。そのうえ初春花形歌舞伎の楽屋にも顔を出すようになっていたので、店に落ち着く時間もなかったのだが、正月のほろ酔い機嫌も手伝って、浅草寺の土地部長大森亮潮先生のお宅を訪ねた。
「 どうした、新年会の帰りか? 」
「 すみません。今日はすこしばかり酔っぱらっていますんで 」
「 めずらしいな、何かあったのかい? 」
「 いや、先生、昔あったものを再建するのは難しいんでしょうか? 」
「 何を再建しようっていうんだ 」
「 九代目市川團十郎の『 暫 』の銅像ですよ 」
「 そんな申請書、出ていたかな? 」
「 申請書は出してません 」
「 申請書が出ていないんじゃ、認めるも認めないも、いえないじゃないか 」
「 いや、浅草のひとたちに相談すると、あんな大きなものを建てさせてくれるわけないって、みんないうんですよ 」
「 みんなはいうかもしれないが、浅草寺としては、その話を会議にかけたことすらないよ 」
「 じゃあ来月、海老蔵と一緒にうかがいますから、申請書のこと教えてください 」私はそれだけいうと帰ってきた。
翌月、私は海老蔵とともに大森先生のお宅へ夕方ごろうかがった。
「 先生、こちらが市川海老蔵丈です 」
「 成田屋さん、ようこそお越しくださいました。それにしても、修くん、きみは事前に予定を聞くとか、知らせるとか、まったくしないね。いつも突然だ 」
「 事前にいって逃げられちゃいけないと思いまして 」
「 逃げやしないよ 」 などと冗談をいいあっていたが、根っから真面目な海老蔵兄さんは、恐縮しきりであった。
「 先生、申請書のことを教えてくださいな 」
「 そりゃいいけど、まずは何か飲みましょうよ。日本酒もビールもワインもウイスキーも、なんでもありますよ 」
「 それじゃ、ビールで 」緊張気味の海老蔵が答えた。私はウイスキーの水割りをいただき、先生は日本酒を飲みはじめた。それからはお寿司や奥さまの手料理で歓待を受けながら、申請書の書き方や名義人は堀越夏雄 ( 海老蔵の本名 )にするなどいろいろ説明していただいた。
私は内心、『 暫 』の銅像は再建できるぞという気持ちになった。そして11月初旬、大森先生から電話があり、私は浅草寺土地部まですぐに飛んでいった。すると、大晦日の晩に海老蔵を先生のお宅へ連れてくるようにいわれた。「 成田屋は、毎年大晦日は成田山にお参りに行って鐘を突くので、うかがえるのは夜中の三時ごろになりますよ 」と伝えると、先生は「 それでいい、待っているからと伝えてくれ 」とのことだった。
大晦日を迎え、私は例年どおり浅草寺弁天山の百七番目の鐘を突き、大森先生のお宅にうかがって成田屋を待つことにした。
この浅草の除夜の鐘は「 百入会 」という百八人の会員によって順番に突くのだが、私の家では親父の代から百七番と決まっている。
「 どうせなら、百八番の大トリを突けばいいのに 」と私は父にいったことがある。
「 だめだよ、百八番じゃカネが残らないじゃないか。カネは現金といって生ものだから、貯めると腐るんだ。カネはすこし残すくらいでちょうどいいんだよ。だから百七番で『 ひとつカネを残そう 』ということだよ 」と父はいった。
私はこの言葉が大好きで、その後何度か「 百八番を 」といわれたが、百七番を死守している。
大森先生の家では、大森先生を慕う画家や職人、サラリーマンといろいろなひとが集まり、除夜の名のとおりに夜を徹して飲みかつ語り合う「 大潮会 」という会が始まっていて、いつものように酒は「 初花 」が振る舞われていた。私は海老蔵の到着を気にしつつ、時計を見ては玄関を出たり入ったりしていた。
そして、ほどなく三時というころ「 おめでとうございます 」という大きな声が玄関から聞こえた。その声はまるで揚幕内から聞こえてくる『 暫 』の出のようであり、それまで賑やかに飲んでいた大潮会のメンバーがいっせいに静かになった。
私はすぐに玄関に向かい、紋付羽織に袴姿の海老蔵を座敷に案内した。海老蔵は大森先生の脇に座ると、「 明けましておめでとうございます 」と、口上のように挨拶をした。
大潮会のメンバーも座りなおし、静かにその様子を見守っていると、立ちあがった大森先生がいった。
「 成田屋さん、『 暫 』の銅像再建の申請が一山( 金龍山浅草寺 )から承認されましたよ 」
その言葉を聞くなり、「 うおー 」という喜びの声と拍手が起こった。私と成田屋は「 ありがとうございました 」とお礼を述べるのがやっとで、あとはふたりで堅く握手をした。あの大きな目には、光るものがあった。そして、そこにいたすべてのひとたちにお礼の挨拶をして酌を受け、私たちふたりはおおいに酔っぱらって先生のお宅をあとにした。
「 さあ、お兄さん、これから大変だよ。募金のための機構作りや、元の新海竹太郎の作品どおりに復元しなくちゃならないからね。中村不折の筆による銘板は残っているというけど、まだ見ていないし。まずは浅草観光連盟と台東区、松竹、そして後援会に集まってもらって、組織を作ることかな 」
元日の空も明るくなり、まだすこしの初詣客しかいない浅草寺境内を歩きながら、私たちは語りあった。

そして昭和61年( 1986 )、十二代目 市川團十郎の襲名を期に再建されました。  大きな像で 九代目 市川團十郎を偲ぶ事が出来ました。

下の2枚は 故十二代目 市川團十郎が 歌舞伎座で演じた「 暫 」の 鎌倉権五郎です。
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追記1)「 荒井文扇堂 」の4代目の「 荒井 治 」さんは、この記事を書いている途中で判ったのですが平成28年( 2016 )2月 癌のために67歳の若さで亡くなっておられました。  この本は亡くなる1年前に書かれています。  ブラタモリ 出演の時には元気だったのですが。  ご冥福をお祈りします。

追記2)昨年11月頃 ニュースで話題になったのですが、東京都の土地で会った「 仲見世の敷地 」を浅草寺が 買い戻し、その為に 家賃が 一挙に16倍になったとの話題がありました。  その後 どうなったのでしょうか?

参考資料 : ブラタモリ 浅草編

この後 浅草寺裏 億浅草に在る「 猿若町 」に行きました。  この話は明日です。

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