山ちゃんの徒然日記

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zoom RSS 淀川渡場の碑

<<   作成日時 : 2018/01/10 05:00   >>

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話は前後しますが、友達の葬儀は 京阪電車 淀駅近くの お寺「 文相寺 」で行われました。  京都駅から 近鉄 京都線 丹波橋駅 で京阪電車に乗り換え 淀駅 で下車。  懐かしい緑色のシートと車内。
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この新しい高架の駅は平成25年( 2013 )より営業を始め、昔の駅から 約300m程 京都寄りにあります。
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「 山ちゃん 」はこの駅を 幼稚園 から 大学迄の14年間 利用していました。  今回新しくなってから下車したのは初めてです。

改札口を出て、駅の西側に行くと 目の前に「 淀城趾 」があります。
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その手前 自転車置き場近くに「 淀川渡場径( 径 : みち、こみち、ちかみち )」と彫られた道標があります。 正面には 現在の久御山町の各地に行く迄の距離( 東南 渡舟場 ●●、一口村 十四丁 等々)が、左側面には 弥陀次郎開基 十一面観世音尊像 一口村 安養寺 是南十五丁( 渡場から更に )と彫られています。 時間が無かったので 慌てて撮りましたが、右側面には 昭和三年三宅・・・(?)とも読めます。
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この渡し場は「 山ちゃん 」が確か小学校1年位迄 利用したので 懐かしくて撮りました。  帰ってから 地元の教育委員会の方が書かれた本に 当時の事が書かれていたので紹介します。

宇治川のつけかえ工事で、新宇治川は淀町と東一口の間が流路に決まり、明治33年( 1900 )から工事が始まりました。 そして、この川の付け替え工事によって明治37年1月、北川顔と淀町の問に新しく淀大橋(木の橋)が架けられました。 日用品や雑貨を淀町で買っていた東一口人々にとっては、川の向こう側に淀町がありながら、大きく回り道をして淀大橋を渡らなければならない為に、かえって新宇治川の完成で不便になってしまいました。

東一口では、この問題を解決する為に、宇治川を渡る渡し舟を設けることになりました。 渡船所( 通称 渡し場 )に行くには、運河に架かる白橋という木の橋を渡らなければなりませんでした。 橋は長さ20m、幅2mほどで、低い欄干で作られた柵状のもの)が付いていました。 この橋を渡ると宇治川の左岸堤防に出ます。 堤防の斜面には15段程の石段がありました。 そして、右手に幅1m、傾きが40度程の坂道があって、自転車や乳母車などは、この道を通って渡し場に行きました。 又 左手にも同じような道がありましたが、この道は漁師の人々が利用していました。 舟に乗る人は、堤防の上から舟がどこにあるのか見渡すことになります。 舟が渡し場にあればよいのですが、向こう岸にあったり向こう岸に向かっている舟を見ると、急ぎの用事があった時などは、ヤキモキしたそうです。 

渡し場の傍には船頭小屋がありました。 小屋の大きさは一坪 (3.3u )位の小さなもので、ヨシや簀(す)で囲んだ簡単なものです。 船頭さんは、その小屋の中で舟に乗る人が来るのを待っているわけです。 渡し場に人がいない時でも、時々向こう岸の船着き場に人がいるか、いないかを確かめ、人の姿が見えるとすぐに舟を出せるように準備をします。 特に木枯らしの吹く冬は、呼ぶ人があっても風で声が聞こえないために、気を使ったそうです。
船頭さんと乗客は顔見知りの人が多く、堤防の石段を下りてくる足音を聞いて船頭さんが小屋から顔を出すと、「 お寒うおすなあ、ご苦労さんどす 」と乗客が声をかけます。 船頭さんも「 寒おすなあ、どこへ行かはるの 」と、決まったような挨拶がかわされます。 船頭小屋から渡し場迄は5〜6m位いでした。 渡し舟は、ふつうの渡し舟よりも一回り大きく、三合舟( トロッコ3杯の土が積める舟のこと。 20〜30人乗り )ぐらいありましたが、形が少し違っていました。 長さは三合舟より短く、幅が広くて頑丈に出来ていました( 長さ 6.2m、幅1.5m )。 

そして、舟は川岸に繋いであるので、舳先( へさき 舟の先端の部分 )を岸に乗り上げたように着けてあります。 また、渡し場といっても「 さん橋 」などはありませんでした。 乗客は 舳先きから舟に乗るわけですが、舳先が高過ぎて着物を着た女性や小さな子供達は、足が届かなくて困りました。 その為、乗客は「 ヨイショ 」と掛け声をかけて舟に乗ったそうです。 船頭さんは乗客を確認すると、川面に舳先をグイッと押して器用に飛び乗り、直ぐに舟を出します。 乗客は、大体中央の「 ナカフナバリ( 中舟張り )」に腰をかけ、船頭さんと向かい合って座ります。 舟は何時も 舳先を上流に向け、10m程岸に沿ってサオ( 樟 )で進み、それから川の中央に向かって45度ぐらいの角度をで進んで行きます。 ところが、大雨などで川が増水しているときは、岸に沿って100m程上流へ行ってから、ろ( 櫓 )を漕いで川の中央に出て、流されるように舟を進めたといいます。 

この様に、その日の水の量や川の流れの速さによってこぎかたも違ったそうです。 そして、寒い冬は川の真ん中まで舟を漕いで行くと、波も高く流れも早くなるので、舟は大きく揺れて水飛沫が上がります。 特に北風・西風が強く吹く時は、宇治川は大波となり、波の先が白い花のように見えます。 これを白西( しらにし )と言ったそうです。 又、晴天の冬の午後、凍りつくような強い西北の風が吹き、大地が白む様な時も白西と呼んでいますが、暖冬が続く現在では、このような現象を感じることは少なくなりました。
草も木も眠り、また水の流れも止まるといわれる程の寒さは、白西が4、5日吹いては 2、3日止み、また吹いては止むということがくり返されると、地面は6、7cm下迄凍てつきます。 このような寒さの厳しい冬でも、船頭さんは休むことなく、年中無休で日の出から日の入り迄、東一口と淀の問を往復していました。

明治43年4月、大阪天満橋から京都五条問に京阪電気鉄道が開通し、淀駅が出来た事によって周辺の人々の暮らしも随分と便利になりました。 東一口からも渡し舟に乗ると短時間で淀駅に行くことが出来ました。 渡し舟は宇治川右岸の船着き場には約5分程で着きます。 ここにも 桟橋は無く、舟は浅瀬に乗り上げるようにして止まります。 そこから50m程河川敷を歩くと堤防の下に出ます。 堤防には正面に石段、左手に坂道がありました。 この堤防を超え明親小学校の横を通って淀駅へ行きますが、船着き場から駅までは10分程で着いたといいます。

この宇治川の渡しは、前にお話した様に東一口区( 現在の東一口自治会 )が運営をしていました。 舟は東一口の持ち物で、戦争の前迄は希望する船頭さんに舟を貸していましたが、戦後の昭和21年( 1946 )以降は入札制度に変わりました。 年代は少し下がりますが、昭和23年の落札金額は 1万500円で、渡し賃は2円だったそうです。 もちろん東一口が運営していますから、東一口の人たちは無料で舟に乗ることが出来ました。 渡し舟は、明治40年頃から昭和29年迄、40数年間にわたって毎日休むことなく地域の人々の足として運航されてきました。 

この間、渡し舟は世の中の移り変りや、人びとの喜び悲しみをじつと見つめてきたことでしょう。 例えば、次ぎの様な出来事がありました。 京阪電車の開通後、大正7年( 1918 )4月に安養寺の十→面観世音菩薩の開帳が 33日間にわたって行われ、東一口は祭り一色に包まれました。
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この期間中、東一口では親戚や友達、そして日頃買い物に行く淀町の商人を招待したので、渡し舟は大変な賑わいをみせました。 この時の様子を知っていたお年寄りの話によると、多い日はお参りの人が 三千人も訪れたので、渡し舟も一艘では間に合わず、終日10艘の舟が運航したそうです。

昭和時代に入ると日中戦争が始まった昭和12年7月以降、戦争が激しくなるにつれて、御牧村からも多くの人が出征しました。 出征する兵士は村人の見送りを受けることになります。 東一口の場合は、青年団・婦人会や親せき・友達・小学生などが、列を組んで淀大橋を渡って、淀駅まで歩いて行きました。 淀駅で見送りを済ませた人々は、渡し舟を利用して東一ロへ帰りました。 なにしろ、大勢な人なので渡し舟は何回も宇治川を往復したといいます。 また戦後は食糧難から、野菜や大根、芋などの食料を求めて、御牧村を訪れる買い出し客や、京阪電車が主催していたタイコンド( 現在の近畿コカ・コーラプロダクツ株式会社の付近 )の芋掘りに来る団体客、そして絶好の釣り場だった西池に来る釣り人など、様々な人々がこの渡し舟を利用してきました。 その後も渡し舟は順調に運航されていましたが、昭和28年( 1953 )9月大変なことが起こりました。 台風13号が近畿地方を襲い、大雨のために宇治川の左岸堤防( 京都市伏見区向島大黒 )が決壊したのです。 久御山町( 当時は御牧村・佐山村 )の農作物は全滅し、家は屋根の ひさし 迄水に浸かってしまいました。
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この時の洪水で渡し舟が流されてしまったのです。 その後、渡し舟は再び運航されるようになりました。 ところが、昭和29年8月、宇治田原自動車株式会社( 現在の京阪宇治交サービス株式会社 )のバス路線( 淀線 )が変更されて、東一口にもバスが通るようになったのです。 そしてこのバスの開通後、長い間、地域の人々に親しまれ、又大切な足として利用されてきた渡し舟も、とうとう廃止されました。 

現在、渡船所のあった付近はすっかり変わってしまいました。 東一口の西のはずれ、運河の傍に建っている淀川渡船所と彫られた道しるべだけが、僅かに昔の面影を今に伝えています。

上記文章は 平成15年3月 久御山町教育委員会 発行「 巨椋池ものがたり 」の第5章 第3節 渡し場と 渡船所 より抜粋したものです。  読んでいると フムフムと頷ける箇所が沢山ありました。  ただ 舟は 子供が呼んでも中々来てくれなかった記憶があります。  

京阪宇治交通が開通する迄、「 かっちゃん 」とか「 亡くなった小嶋君 」もこの舟に乗って遊びに来てくれたことが 懐かしく思い出されます。

追記)山ちゃんは 山田本家の第24代ですが、ご先祖の第12代 山田與三右衛門の室( 清誉光月栄照禅定尼 )は この淀城主 石川主殿守の娘です。

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