山ちゃんの徒然日記

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zoom RSS 「 両国橋 」から「柳橋」へ

<<   作成日時 : 2017/11/10 05:00   >>

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「 両国橋 」の事に就いて、以前「 徒然日記 」の中で2つ書きました。  一つは「 江戸東京博物館 其の四 両国橋 」、もう一つは「 隅田川テラス散策 其の弐 」です。

地図の通り、回向院を後に隅田川方面に向かいます。  以前のブログと多少重なりますが、もう一度「 両国橋 」に就いて簡単に纏めました。
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【 両国橋 】
両国橋の正式な名前は 当初「 大橋 」と呼ばれていた一方、「 武蔵野国( 東京都 )」、「 下総国( 千葉県 )」の両国に架かる橋であったことから「 両国橋 」という俗称もありました。  元禄6年( 1693 )、下流に「 新大橋 」が架橋された時に「 両国橋 」と言う名が正式名称となりました。  江戸時代、隅田川には防衛上の理由から「 千住大橋 」以外の架橋が認められていませんでした。  この事は「 徒然日記 」の中の「 隅田川テラス 」を散策した時に「 渡し場 」が多く見受けられた事でも判ります。 その様な中、「 明暦3年( 1657 )」に発生した「 明暦の大火( 振袖火事 )」が江戸を襲いました。  この明暦の大火の際に、隅田川に橋が無かった為、逃げ遅れた多くの人々が犠牲となったことが、「 両国橋架橋 」の切っ掛けとなったのです。  また、江戸の都市の急速な発展に伴い、両国、深川エリアへの都市拡張が行われたこともこの「 両国橋架橋 」と関係しています。  明暦の大火は築地など臨海部の埋め立て、両国、深川エリアの開発の契機となりました。    この橋が架かったため、本所・深川が江戸の新市街として発展することとなったのです。   橋詰の両側は、賑やかな遊び場所としても開けました。
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橋のたもとには「 大きな円球 」があります、これは 隅田川の花火をモチーフとしています。  橋を渡ると 上流に総武線の「 鉄橋 」と「 スカイツリー 」が、下流には「 新大橋 」が見えます。  そして 対岸には 神田川が隅田川に流入する河口部に位置する最下流の橋梁「 柳橋 」が見えます。  この両国橋 大型の車が通行するので 結構揺れます。
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【 久し振りに見た光景 】
「 両国橋 」を渡って「 柳橋 」方面に歩いた時、懐かしい 丼等をおぼんの上に載せて配達する人を見かけました。  久し振りに見たのと、その丼等の数の多さに 見とれていました。  これも 職人技 なんでしょうかね!
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【 柳橋 】
神田川が隅田川に流入する河口部に位置する最下流の第一橋梁です。
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橋の袂に 2枚の説明パネルが設置されていました。  以下そのパネルの説明内容です。
その起源は江戸の中頃で、当時は、下柳原同朋町( 中央区 日本橋 )と対岸の下平右衛門町( 台東区 浅草 )とは渡船で往来していたのですが不便な為 元禄10年( 1697 )南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌年完成しました。  その頃の 柳橋通りは隅田川の船遊びの客が多く」 柳橋に蒲団を放り込み 」と川柳に見られる様な賑わい振りでした。  明治20年( 1887 )に鉄橋となり、その後その柳橋は大正12年( 1923 )のの関東大震災で落ちてしまいました。  復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。  柳橋は ドイツ ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ昭和4年( 1929 )に完成しました。  完成から70年余、現在 区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代の土木遺産として平成3年に整備し、同11年に区民有形文化財に登録されています。( 中央区教育委員会 )
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柳橋の下を流れる神田川は、三鷹市井の頭池を水源とし、都心部を流れて隅田川へと注ぐ全長25Kmの都市河川です。  この位置に初めて橋が架かったのは、元禄11年( 1698 )のことで「 川口出口之橋 」あるいは 近くに幕府の矢の倉があったことから「 矢の倉橋 」とも呼ばれていました。  「 柳橋 」の由来については
   (1) 矢の倉橋が矢之城( やのき )橋となり、更に
      変化して「 柳橋 」となった。
   (2) 柳原堤の末にあったことに由来する。
   (3) 橋の袂に柳の樹があったことに由来する。
このような諸説がありますが、真説は不明です。  明治維新後、柳橋は新橋と共に花街として東京を代表するような場所になり、新橋は各藩から出て政府の役人になった人々、柳橋は 江戸以来の商人や昔の旗本といった人々が集まるところであったようです。  区では平成3年度に、優美な形をしたこの橋を後生に伝える為に、傷んだ親柱を復元し、欄干は花街に因んで「 かんざし 」を飾り、歩道には御影石を貼って再生しました。  また夕暮れより照明の演出をして、神田川河口に架かる「 柳橋 」の存在感を持たせました。 ( 東京都中央区 )  橋は タイド・アーチ式、橋長 37.9m、幅 11m。
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【 柳橋 界隈 】
昔は 舟遊び、芸者遊び、吉原への入口を兼ねた街です。  かつて江戸随一の歓楽街であった両国は目と鼻の先で、吉原方面への渡船場であり、更にこの地区自体も花街として発展しました。  昭和初期頃迄、料亭や船宿などが建ち並ぶ情緒あふれる地区でしたが、今でも 橋の上から 神田川を望むと両岸に並ぶ屋形船の発着場があり、その片鱗をうかがうことが出来ます。
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【 佃煮 小松屋 】
時折 テレビでも紹介されている「 佃煮 」を販売している「 小松屋 」があります。  創業は明治14年で、明治から昭和の初め、花柳界としてにぎわった柳橋。  料亭から旦那衆が芸者衆を乗せて隅田川を行き交う涼み船や投網で採れた魚を天ぷらや刺身にして客に出す船宿を営んでいたのが「 小松屋 」。  柳橋の料亭のおみやげとして、鮒のすずめ焼きや、江戸前の佃煮を売り出したところ、やがて評判となり現在も柳橋のたもとで4代目が昔と変わらぬ製法で営業をしています。
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【 柳橋の花街に就いて 】
柳橋というと、昔から新橋、赤坂と並ぶ三大花街の一つで、地域的には、現在の台東区柳橋一丁目辺りです。  
新橋の花街が明治に出来たのに対し、柳橋は江戸中期からある古い花街で、柳橋に芸妓が登場するのは文化年間( 1804 – 1817 )で、14名が居住していたと記録されています。  天保13年( 1842 )水野忠邦による改革で深川などの岡場所( 非公認の花街、遊廓 )から逃れてきた芸妓が移住し、花街が形成されるのです。  やがて洗練され江戸市中の商人や文化人の奥座敷となりました。  交通便にも恵まれ隅田川沿いに位置していたことから風光明媚の街として栄えてくるのです。  安政6年( 1859 )には、芸妓が140名から150名に増加しました。  柳橋は、元吉原( 日本橋人形町 )から移転した、新吉原( 台東区千束 )へ通う出発点でもありました。  柳橋の船宿から「 猪牙船( ちょきぶね、現代のタクシーみたいな物 )」に乗り
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隅田川を上って山谷掘りから大門入り口の衣文坂下まで・・・・・。 といった唄があります。  明治期になると、新興の新橋と共に「 柳新二橋( りゅうしんにきょう )」と称されるようになります。  明治時代の客筋は、商( 実業家、相場師、銀行家 )が5割、髭( 政治家、軍人、弁護士 )3割、雑2割( 俳優、力士、芸人 )の割合となっていました。  この頃は柳橋芸者のほうが新橋より格上で、合同した場合は、新橋の者は柳橋より三寸下がって座り、柳橋の者が三味線を弾き始めないと弾けなかった と言われています。
昭和3年( 1928 )には、料理屋、待合 併せて62軒、芸妓366名と大規模を誇り、芸妓の技芸も優れ、新橋演舞場や明治座に出演し披露していました。  代表的な料理屋は伊藤博文が利用した「 亀清楼 」がありました。
その後 第2次世界大戦による休業と被害、敗戦を経て復興しました。  昭和27年( 1952 )には料亭57軒でありましたが、昭和39年( 1964 )の東京オリンピック以後、「 いざなぎ景気 」の時代になり、遊びに出掛ける客の多様化が現れ始めました。  バー、クラブ、キャバレー等に徐々に客を奪われると共に、芸のわかる旦那衆が減ってきたのです。  特に昭和40年の「 オイルショック 」、又 追い打ちをかけたのが隅田川の護岸改修( カミソリ堤防 )で景色が遮断され、花街にとって大きな致命傷となったのです。  それでも、花街は世間に迎合せずその伝統を守り通しましたが、平成11年( 1999 )、最後の料亭「 いな垣 」が廃業し 又 芸者組合も解散し、ここに200年近くの歴史に終止符が打たれました。  
「 柳橋 」を渡り江戸通りから 「JR浅草橋駅 」方面に向かいましたが。マンションやビルが立ち並び、昔の花街の痕跡残っておりません。  柳橋の花街の事を書きましたが、東京中に数多くあった花柳界は「 柳橋 」と相前後して一時は、政治家や財界人で賑わっていた新橋、赤坂でさえ、往年の面影は全く無く、今や花柳の巷の華やいだ噂話は僅かに、神楽坂、浅草、向島にその一端を仄聞するのみとなってしまいました。
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追記 : 柳橋の芸者と新橋の芸者の違いが書かれたのがありました。  面白いので追記しました。  「 新橋 」は維新の志士との付き合いが深く、明治の交通新拠点に開かれた新興の花街であり、明治に入って柳橋を凌駕する威勢をしめした。  戦後も外務省が海外の賓客を迎えた。  芸者の本場とされる柳橋の芸者が基本的に江戸っ子のベランメイ女であり、明治の官員となった田舎武士とそりが合わなかったのに対して、新興の新橋芸者は現金主義で人みしりをしないところが新時代にふさわしく、繁昌の中心が柳橋から新橋にシフトしたのも同じ理由とされる。   伊藤博文さんを初め、多くの維新の志士たちが実際に京都の芸子さんを妻に持つことが多かったけれど、江戸っ子芸者と田舎武士の相性が合わなかったというお話も、実に面白い。

両国駅から 散策しながら 最後「 浅草橋駅 」から「 秋葉原駅 」経由で 帰りました。
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この両国の辺りは まだ 江戸の文化を遺した箇所が方々にあり、散策しながら歴史を知る 絶好の場所です。  どうも「 両国駅 」に散策の本が販売されているらしいので、改めて訪ねる予定です。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
お丼抱え、自転車で走っているお兄さん。よくこんな光景見ましたよね。昔は。今は、めったに見ません❗思わず、気を付けてって言ってしまいました。ほんと職人技ですね❗
富華
2017/11/11 10:14
片手運転、盆担ぎ出前、懐かしい光景です。
大阪の中之島に勤務先が有り、昼食にそば屋で出前を取るとこの姿で配達してました。
そうですね、昭和50年代後半ぐらいまで続いていたでしょうか、配達する店員が方言なまりの強い東北出身で、話好きで、早く帰らないと怒られるからと言いながらもいつも長居して、時に、そのまま食べ終わった丼を持ち帰っていたのを思い出しました。
A
2017/11/11 14:07

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