山ちゃんの徒然日記

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zoom RSS 難読「一口(いもあらい)」に就いてのお話【 其の壱 】

<<   作成日時 : 2017/07/11 05:00   >>

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今日と明日 2回に分けて、地名「 一口 」に縁( ゆかり )のある話をします。  今日は【 其の壱 】として「 一口 」と「 太田姫稲荷神社 」に就いてです。

「 山ちゃん 」が生まれ育った 京都南部に位置する「 久御山町の 一口( いもあらい )」は 難読地名として知られています。  古くは「 平家物語 」、「 源平盛衰記 」、「 吾妻鏡 」を始め、中世以降の史料にその名が散見され、宇治川・木津川・桂川が流入する巨椋池( 今は干拓されて 面影はありません )の傍に位置し、合戦の度に重要視された京都府南部に於ける要衝の地で、又 交通の要でもありました。  その「 一口 」は、遠く 東京 神田に在る「 太田姫稲荷神社 」
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と関係しており、更に 都内3箇所には「 一口坂( 芋洗坂 )」と呼ばれる坂があります。  かねがね その地を訪ねてみたいと思っていたところ「 神田藪蕎麦 」、「 竹むら 」から歩いても 遠くない距離に「 太田姫稲荷神社 」と「 神田 一口坂 」があるので訪ねました。  何時もの通り「 緑の線 」が歩いた道順です。
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【 一口に就いて 】
「 一口 」に就いて書きますと 長文となりますので、私のホームページ「 久御山町の今昔 一ロの地名伝承 」を読んで下さい。  読んで戴いてお判りの通り、一口の地名語源に就いて、多くの人達を納得させるような説は現在無いといってよいでしょう。  その理由は一口の地名解釈が、一口と書いてなぜ「 イモアライ 」と読むかということのみに関心と興味がもたれた結果、無理な解釈やこじつけ、更に珍解釈が生じ、地名解釈を益々困難なものにしているからです。  

この様な中で「 久御山町史 第1巻 」には、推測の域を出無いと断った上で「 巨椋池の地理的な要因からみて、そこで生計を営んだ漁師集団の発生と漁師の信仰形態にその謎を解く鍵があるように思える 」と述べ、下記の様な見解を示しています。
 
「 イモアライ 」の語源は、これ迄見てきた様に漁師の生業を浄化する「 忌み清まる 」、つまり「 イミハライ( 斎祓い )」から「 イモアライ 」という語に転説したものと考えることが出来る。  この「 イモアライ 」という発生音に漢字を当てると、「 芋洗 」となるのである。  それでは「 一口 」と書いて、なぜ「 イモアライ 」と読むのであろうか。  東西に弓なりに連なる「 西岸堤防( 大池堤 )」上に集落が並ぶ東一ロは、巨椋池干拓以前には「 北 ・ 東 ・ 南 」の三方が巨椋池とその付属する池によって囲まれ、西の一方のみが宇治川の堤防に続いていた。  集落への入口は一つであった。漢字の一口は、まさにこの土地の立地状況を正確に表わしているといえる。  「 山城国久世郡御牧郷村名宮寺初記 」には、一口村を「 ひとくち村 」と読ませている。  地名として土地を呼称する場合、「 ヒトクチのイモアライ 」と呼んだと思われる。  もともと「 ヒトクチ 」は、地形の状況を表現する語であったものが、後に「 ヒトクチ( 一口 )」と書いただけで「 イモアライ 」と読ませるようになったと考えられる。  「 イモアライ( イミハライ )」というこの五文字の中には、生業である漁業を縦糸に信仰を横糸として、現世を神に来世を仏に託した信仰心の篤い漁師たちの苦悩と、それにうちのめされない したたかな精神の躍動をみる思いがする。  と記しています。

【 太田姫稲荷神社 】
この神社は 6年程前の真夏 汗を拭きながら 一度訪ねた事があり、その時 神社の守りを委託されている人から「 数年前に 」京都 東一口の「 内田M夫」さんと「 山田T 」さんが訪ねて来られたと聞いた事がありました。  以前と比べ 社務所、石碑 等含め 綺麗になっていました。
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上述の一口と、同字地名として知られる 「 東京都千代田区神田駿河台の淡路坂 」が在りますが、昔はこの坂を「 一口坂 」と書いて、「 いもあらいざか 」と読んでいたのです。  坂の上に稲荷社があり、現在は「 太田姫稲荷神社 」と改称されていますが、古くは「 一口稲荷神社 」と呼ばれていました。  その後 鉄道線路拡幅工事に伴い昭和6年に 現在の地に移転しました。  

当社蔵の縁起によると、平安時代の初め、小野篁( たかむら )が、隠岐( おき 島根県 )へ流罪になった時、海上がおおいに荒れました。  篁が「 観世音菩薩普門品( ふもんばん 観音経 ))を唱えると白髪の翁が波上に現れ、「 汝の罪はまもなく許される。しかし、庖瘡を患えば一命はおぼつかないであろう。我が像を常に祀れ 」と神託がありました。  二年後、帰京を許された篁は、翁の像を刻んで「 山城国一口 」の里に祀ったという。  更に時代は下って、縁起は「 太田道灌( 1432 〜 1486 )」の故事を記しており、道灌の娘が疱瘡にかかった時、「 山城国一口の里 」にある「 一口稲荷神社 」に祈願すれば、平癒するということを人づてに聞き、早速急便を遣わし祈願した。  幾日もなく使いのいの者は、「 一口稲荷神社 」から祈祷の一枝と幣をささげて帰ってきました。  この日を境に重かった庖瘡もぬぐうように治ったのです。  喜んだ道灌は、江戸城内にこの神社を勧請( かんじょう )しました。  後 慶長11年( 1608 )8月、神社は江戸城改築に際して、城の鬼門にあたる「 神田駿河台の大坂 」に移され、この坂を「 一口坂 」と呼ぶようになったというのである。  縁起に記すところによれば、山城国の一口に稲荷神社があって、庖瘡平癒の神社として信仰を集めていたという。
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この山城の神社というのは、寄贈した 京都 久御山町 東一口の実家から程近い、「 豊吉(ほうよし)稲荷神社 」の事を指しており現存しています。
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ところが豊吉稲荷神社に就いては、近世の地誌類などにその名を見付けられておりません。  また当社が縁起にいう庖瘡平癒の神社として、信仰を集めていたか否かについては、当地にそれを裏づける史料等が無い為に定かではありません。  しかし、縁起等の存在から「 一口 」と「 太田姫稲荷神社 」とは何等かの関係があった様です。  「 一口 」の地名が「 庖瘡 」に関係するという伝承は、地名の由来を考える上で、捨て難いものを含んでいます。  ちなみに、現在知ることが出来る「 豊吉稲荷神社 」の伝承等に就いては、古老の話として昔 巨椋池畔の葭島( よしじま )開墾の際に白狐が現れ、当社はそれを祀ったものという。  また、東一口では子供の宮参りには、一番に氏神である玉田神社
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次に安養寺
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そして豊吉稲荷神社に参る習わしがあります。  

漠然とした話ですが 上述の通り 何らかの関係が有ったことは間違い無いと思えるのですが。  下記に 以前訪ねた時に戴いた「 太田姫稲荷神社縁起 」もお読み下さい。
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  明日は「 一口坂 」に就いてです。

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