山ちゃんの徒然日記

アクセスカウンタ

zoom RSS 祐天寺に行って来ました【 其の弐 】

<<   作成日時 : 2017/06/22 05:00   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 6 / トラックバック 0 / コメント 0

昨日からの続きで 今日は 其の弐 です。
画像
:境内の風景です。
画像

【 五社稲荷 】
「 祐天上人 」誕生の日、白狐が3声鳴いたという随身稲荷を始め、松黒、富山、天白、妙雲の5社が、正一位五社稲荷大明神として祀られています。
画像
画像

【 仏舎利殿 】
仏舎利の納められている大殿の壁に大絵馬が奉納されています。  月岡栄貴画伯によるもので、累( かさね )の物語を絵で表したものです。  累は【 累塚 】の項を参照して下さい。
画像
画像
画像

【 鐘楼 と 梵鐘 】
この梵鐘は享保13年( 1728 )に、第6代将軍家宣( 文昭院 )の17回忌追善供養の為に、「 天英院 」が発願し、翌14年に完成しました。
画像
画像
画像
鋳造は祐天寺の敷地内で行われたことが記録に残っており、鋳身には何回かに分けて鋳造された痕跡が見られます。  鐘には「 祐海上人 」が撰文した「 明顕山( みょうけんざん )祐天寺鐘銘併記 」を始め 南無阿弥陀仏の名号 及び 願文、時の将軍吉宗、願主天英院、御用掛、工匠の名などが刻まれています。  鐘楼には立ち入り禁止の為 見る事は出来ませんでした。  又鐘の上部には 徳川家の家紋「 三つ葉葵 」、下部には 天英院の実家 近衛家の家紋「 牡丹 」が陽鋳されています。
画像
天英院は寄贈後 同寺に対し、家宣様のご冥福のため鐘を毎日撞くようにと手紙を書いています。
画像
元文3年( 1738 )年の27回忌追善を期に時の鐘として撞かれることとなり、以降 現在に至るまで 朝6時6回、正午前に12回 撞かれています。( 鐘を撞かれたお坊様から聞きました )  当時 撞かれた音は 江戸城まで届いたらしいです。  動画を撮りましたので「 鐘の音 」を聞いてみて下さい。

【 水子地蔵 】
昭和58年( 1983 )に建立されました。
画像

【 子守り地蔵 】
昭和18年( 1943 )に建立され、子供の百日咳や虫封じに御利益があるとして信仰を集めています。  もとは本堂の左側にあり、子供の成長をこの子まもり地蔵に祈願したあと、墓地にある宝篋印塔( ほうきょういんとう )を潜らせたそうです。

【 仏足石 】
お釈迦様が悟りを開かれた インド ブッタガヤにある大塔の「 金剛宝座 」脇の菩提樹下に祀られている仏足石を模してインドで作られた物です。
画像

【 累塚 】
寛文8年( 1668 )の頃、上人が飯沼 弘経寺( ぐぎょうじ )に在住の頃、累一族( かさね )の怨霊を化益( けやく 人々を仏道に導くことと,利益を与えること )された事跡があります。  文政年間、鶴屋南北が それを 脚色した歌舞伎「 法掛松成田利剣 」を上演し好評を得ました。  大正15年、6世 尾上梅幸、十五世市村羽左衛門、五世清元延寿太夫等が施主となり、現在の地に「 累塚( かさねつか )」を建立して 累一族の霊 を弔い上人の威徳に浴することになりました。  それ以来 歌舞伎清元の上演者は必ず、この塚に詣でて累一族を供養して興業の無事と上演の盛会を祈願することを慣わしてしています。  茨城県法蔵寺より累一族の墓士を分けて祀ってあります。
画像
画像

【 火消しゆかりの碑 】
大岡越前守忠相が作ったといわれている いろは四十八組は、江戸の町の火消し 制度です。   そのルーツは「 祐天上人 」が増上寺で作った防災組織にあるそうです。  その関係から 今でも境内には「 火消しゆかりの碑 」があり、毎年「 江戸消防記念会 ・ 消防殉職者慰霊祭 」 が「 祐天寺 」 で開催されます。
画像
画像

【 旧崇源院霊屋宮殿 】 
「 旧崇源院霊屋空殿( きゅうそうげんたまやくうでん )」は、秀忠( 第2代 )の正室で3代将軍家光の生母、江( ごう 崇源院 )の位牌を納め祀るために寛永5年( 1628 )に建立されました。( 仏像や位牌を安置する厨子の一種で、小建築的なものを宮殿と呼びます。  高さ2.4m、幅2.1m、奥行き1.4mで、金箔を使い、極彩色の外観で、内部には極楽をイメージした蓮華や飛天が描かれている。  外装には蓮華の文様や逆蓮( ぎゃくれん )の彫刻が施されています。 )  元々は家康の側室である「 愛( あい )」の菩提寺の駿府 金米山宝台院龍泉寺( きんぺいさんほうだいいん )の崇源院霊屋にあったものです。  その後吉宗( 第8代 )の時世( 1716 〜 1745 )にこの霊屋が畳まれた際に、祐天寺に寄附されました。( 位牌は増上寺に移されました )  現在は 徳川家康の像が安置されているらしいです( 綱吉が増上寺 安国殿の家康像を写し、竹姫に贈り、竹姫が祐天寺に納めた )  本宮殿は 正八角形を基本とする「 変形六角形 」の特異な形式です。  これは将軍の夫人の宮殿に用いられた形式と考えられ、類似の宮殿が 増上寺 の徳川霊廟にありましたが 戦災で焼失した為に現存する唯一の遺構となっています。  禅宗様式の建築技法や豊富な金具による豪華な装飾は徳川将軍家に相応しい顕著な特徴となっており、江戸時代初期の技術的な高さを見ることが出来ます。  現在「 非公開 」となっています。  勿論 見る事は出来ませんでしたが「 本堂 」にでも安置されているのでしょうか。( 都指定文化財 )
画像

【 大正天皇御生母墓 】
大正天皇の生母、柳原一位局( 柳原愛子 )様のお墓です。  昭和18年( 1943 )に薨去されました。  お墓の両脇に植えられた紅梅・白梅は大正天皇の皇太后「 貞明皇后 」様から贈られたものです。
画像

【 祐天上人墓 】
祐天上人は江戸時代中期に活躍した浄土宗の高僧です。  陸奥国岩城郡( 現在の福島県 )四倉村に生まれ、伯父の芝増上寺内池徳院休波を訪ねて江戸に上がりました。  その後檀通を師として修学し、諸国所行の旅に出ます。  牛島で念仏生活を続けていたところ桂昌院の帰依を得て、将軍 綱吉との関係も深まります。  元禄12年( 1699 )に下総の生実大巌寺の住持となりました。  宝永元年( 1704 )には伝通院住持となり 度々江戸に召され、とりわけ大奥の人々が深く帰依しました。  正徳元年( 1711 )に将軍 家宣より芝増上寺住持を命じられ、三十六世となり大僧正に任じられました。  多数の寺院の復興などを行い多くの人々の帰依を得ました。  正徳4年( 1714 )隠居し、享保3年( 1718 )入寂( にゅうじゃく )しました。  祐天寺は、「 祐天上人 」の遺言により 高弟「 祐海 」が念仏道場を建立したことに始まります。  祐天を開山とし、祐海は二世となりました。  墓はいわゆる無縫塔で、倒卵部分の高さは90cmを計ります。  六角板状の基部があり「 当寺開山 祐天大僧正 」と記されています。  廟の周りには歴代住職の墓が並んでいます。( 東京都旧跡 )
画像

帰りに 違った道を歩いたら 公園に「 C57 蒸気機関車の主動輪 」が展示されていました。  国鉄時代に払い下げられ当地に保存と書いた有りました。
画像
画像

資料出所 : NHK 英雄達の選択、祐天寺ホームページ、ウィキペディア、目黒区ホームページ

明日は「 妙蓮寺 」に就いてです。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 6
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文

リンク先

祐天寺に行って来ました【 其の弐 】 山ちゃんの徒然日記/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる