山ちゃんの徒然日記

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zoom RSS 祐天寺に行って来ました【 其の壱 】

<<   作成日時 : 2017/06/21 05:00   >>

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昨年12月6日の徒然日記「 九品仏 」で、東急電鉄の駅名の中に お寺に関係する駅が3駅( 九品仏、祐天寺、妙蓮寺 )あると書きました。

「 山ちゃん 」にとって「 祐天寺( ゆうてんじ ) / 祐天寺駅 」と言いますと
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@ 「 古希 」前後のAVファンの方ならご存知の、故オーディオの神様的存在だった「 高城重躬( たかじょうしげみ )」氏が録音された「 祐天寺 」の「 除夜の鐘 」の音を聞いた事がありました。  確か SONYのコンデンサーマイクで収録し TEACの A-6020 オープンデッキで再生されたと記憶しています。  当時はオーディオの聞き比べ等が都内各所で盛んに開催されていました。  今から45年程前の事です。
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A 「 祐天寺駅 」は一時期 本社が「 麻布台 」に在った時、通勤途中の駅でもありました。  
B NHKの「 英雄達の選択 」という番組で「 祐天寺 」の梵鐘の事が取り上げられ 一度訪ねたいと思っていました。
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「 祐天寺駅 」までは 最寄り駅の「 菊名 」から 東急 東横線 で約20分程度、「 妙蓮寺駅 」は隣の駅でもあり 夏の陽気でしたが 訪ねました。  今日と明日は「 祐天寺 」に就いて、明後日は「 妙蓮寺 」に就いてアップします。

「 祐天寺駅 東口 」から
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商店街を抜け
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駒沢通りを左折すると「 祐天寺 」の 塀に続いて表門が見えます。
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享保3年( 1718 )「 祐天上人( 芝 増上寺 第36代の大僧正で、徳川家 5代( 綱吉 )〜8代( 吉宗 )迄 歴代将軍の帰依を受け、享保3年他界 )」を開山として仰ぎ、その高弟「 祐海上人 」が創建した寺院です。  当時新しい寺院の建立は幕府の厳しい制約があって困難でしたが、「 祐天上人 」のかねてからの強い希望と、「 祐海上人 」の努力によって、享保8年( 1723 )「 明顕山( みょうけんざん )祐天寺( 浄土宗 )」の寺号が許されました。  以来「 徳川吉宗( 第8代 )」の浄財喜捨や特別の保護を受け入れるなど、徳川家と縁の深い寺として栄えました。  本堂には 木造の「 祐天上人坐像 」が安置されています。  この像は 綱吉( 第5代 )の息女 松姫 の寄進による物で、享保4年( 1719 )「 大仏師法橋石見( ほっきょういわみ )」の名作で「 都指定の文化財 」となっています。  又 祐天寺第二世「 祐海上人 」の木造坐像も安置されており「 区指定文化財 」となっています。  本寺所蔵の「 般若心経 」第1巻、「 紺紙金字法華経巻第三 」1巻は、共に「 都指定文化財 」となっています。  尚境内には 綱吉の息女 竹姫 寄進の「 仁王門 」及び阿弥陀堂や稲荷堂、「 天永院 」寄進の「 梵鐘 と 鐘楼 」、地蔵堂など 江戸時代の遺構を伝える建造物があります。  道を挟んだ墓地には「 祐天上人の墓 」や「 柳原愛子( 大正天皇生母 )」があります。

以下「 祐天寺 」の境内に就いて説明しますが、時折「 天永院 」の名が出て来ますので、ここで簡単に触れます。  近衛熙子【 このえひろこ、寛文6年( 1666 )− 寛保元年( 1741 )】は
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「 徳川家宣( 第6代 )」の正室( 御台所 )です。
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父は近衛基熙、母は後水尾天皇の娘 常子内親王。  正徳2年( 1712 )に家宣は病により没し、その跡継ぎは、家宣の側室「 お喜世の方( 月光院 )」が生んだ「 家継( 第7代 )」となるも 幼くして他界。  紀州藩主の徳川吉宗を第8代将軍に推す時、反対勢力( 幕臣等 )に対し「 これは先代将軍家宣公の御本心なのです 」として決めさせたと言われています。  吉宗に正室が不在だったこともあり、将軍家女性の筆頭としてその後も大奥にて権勢を振るい、幕府内における発言力も絶大であったといわれています。  これにより徳川家は 徳川御三家の紀州が 代々 家督を継ぐことになるのです。
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家宣没し後、熙子も落飾して院号を「 天英院( てんえいいん )」と名乗りました。  76歳で没し、戒名は「 天英院殿従一位光誉和貞崇仁尊儀 」で、夫と同じく増上寺にある「 徳川家宣 」の墓に合祀されています。  3枚の写真中 最初の2枚は戦災を受ける前の増上寺の霊廟と墓
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最後の1枚は 現在の墓です。
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【 表門 】
当時は将軍や武士が出入りするための門で、一般の人は門番所への断りなしには入ることが許されませんでした。
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【 仁王門 】
この仁王門は 仁王像と共に、享保20年( 1735 )の建立で、綱吉の息女 竹姫が寄進した物です。  桁行8.5m 梁間4.3m、棟高9m 三間一戸八脚門切妻造本瓦葺型銅板葺で円柱は欅が用いられています。  正面の両脇間に享保20年法橋石見作の仁王像、背面の東脇間に持国天、西脇間に増長天が安置され、共に運慶の作品とされています。  又中央間の内側には正面に麒麟、背面に海馬の二獣紙を配しています。  尚 頭貫( かしらぬき )上の蟇股( かえるまた )には十二支が彫られ、方位を示しています。  各虹梁( こうりょう )、木鼻( きばな )、肘木( ひじき )に施された渦紋、若葉紋の彫り方は地が強さを感じさせ、木割、細部絵模様等の建築様式の特徴は江戸中期の性格を留めています。( 区指定文化財 )
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【 本堂 】
祐天寺起立の翌年の享保4年( 1719 )建立され、嘉永4年( 1851 )再建されました。  その後明治27年( 1894 )に火災により消失。  明治31年( 1898 )に復興されました。
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「 祐天上人坐像 」が安置されています。
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【 書院 】
寛保元年( 1741 )「 天英院 」が逝去の後、その御座の間の材木、金具等が「 祐天寺 」に寄進されました。  それを使って寛保4年( 1744 )にほかの建物と共に、書院が建立されました。  しかし明治27年( 1894 )書院は本堂と一緒に火災で焼失し、明治30年( 1898 )に再建されました。
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【 地蔵堂 】
地蔵堂に安置されている「 地蔵菩薩像 」は、寛政9年( 1797 )に信州松本の光明院から祐天寺に遷座されました。  祐天上人はこの地蔵菩薩の生まれ変わりとして伝えられ、右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、延命と火消しのご利益を授ける地蔵菩薩です。  葵の紋が付けられていました。
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【 精進殿 】
第二十世巖谷勝雄上人が、昭和48年( 1973 )に建立しました。  法要後の場、小学生を対象に行われる「 精進道場 」、幼稚園の園児を対象とした「 祐天寺てらこや 」等に使用されています。
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【 阿弥陀堂 】
綱吉の息女 竹姫の寄進で、享保9年( 1724 )に上棟されました。  同堂は、木割及び細部絵様の簡潔でありながらしっかりとした線刻から考察すると、江戸時代 中・後期の特質を留めています。  このお堂は創建時の姿を伝える物として仁王門と共に重要なものです。  阿弥陀堂本尊阿弥陀如来は寄木造り坐像。  江戸時代の正統的な作風の像です。
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明日【 其の弐 】へと続きます。

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