山ちゃんの徒然日記

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zoom RSS 増上寺と徳川家霊廟【 其の弐 】

<<   作成日時 : 2015/05/17 06:00   >>

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今回 参拝した 増上寺の「 徳川家霊廟 」は、本来 浜松町から増上寺に至る 参道が参拝の道順ですが、東京タワーからだったので、裏口から入った様になります。   東京タワー 第一展望台から「 増上寺 」を望みます。
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カラフルな風車を持った小さなお地蔵さんが、実に1,000体以上ずらっと並んでいます。  お地蔵さんは 子供の守り神として崇められていたので、子供の喜ぶ お菓子や風車が供えられているのです。
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そして 本堂の裏手に行くと「 徳川家の霊廟 」が見えます。
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「 特別拝観 」の文字が。   拝観料を払いました。
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   正面「 鋳抜門(いぬきもん) 」
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の左脇の小門から入ります。
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コの字型に 宝塔が並んでいます。
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ここだけは 賑やかな都心の雑音が遮断された「 聖域 」です。    墓所には、二代秀忠公・六代家宣公・七大家継公・九代家重公・十二代家慶公・十四代家重公の六人の将軍のほか、崇源院( 二代秀忠公正室、家光公の実母、お江 )、静寛院宮( 十四代家重公正室和宮 )ら五人の正室、桂昌院( 三代家光公側室、五代綱吉公実母 )はじめ五人の側室、及び三代家光公第三子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女等38名が埋葬されています。   

以下に 「 鋳抜門 と 宝塔 」を紹介します。
戦災にて焼失した「 旧徳川家霊廟 」は、現在の大殿南北(左右)に建ち並ぶ壮麗なものであったと伝えられています。   現在の霊廟の正面の門は旧国宝で「 鋳抜門( いぬきもん ) 青銅製 」といわれ、文昭院殿霊廟( 徳川家六代将軍家宣公 )の宝塔前「 中門 」であったものを移築しました。   左右の扉は共に青銅製で5個ずつ葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれ、その荘厳さは日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構です。  消失前は墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、当時の最高の技術が駆使された厳粛かつ壮麗な霊廟は、いずれも国宝に指定され格調ある佇まいでした。  一人の将軍のお墓がそれぞれ、これだけの立派な門によって守られていたのです。   「 正面右側に第2代将軍 秀忠公 」の宝塔があり、焼失前の宝塔は霊廟室内に祀られ、大変大きなものでありました。  しかし、惜しくも木造の為、戦災で焼失、現在は「 内室 崇源院 」と共に合祀されています。  「 静寛院宮( 皇女 和宮 )の宝塔は当時のもので、実際「 家茂公 」と並んで祀られていました。   宝塔は御夫婦同じ物でありましたが、家茂の石塔に対して青銅製であり、明治になってから造られた墓は、将軍の墓に対し、すべてに点において荒削り、不揃いであることからこんなところにも時代の変遷を感じ取ることが出来ます。  「 菊の御紋章 」が印象でした。
先程 歴代の将軍を含め38名の方々が埋葬されていると書きましたが、その方達 を簡単に説明します。
【 第2代将軍 秀忠 】秀忠は家康の第3子として、1579年( 天正7年 )に生まれる。  1605年( 慶長10年 )第2代将軍の位に上った。   将軍職にあること18年を数え、1632年( 寛永9年 )54歳で逝去。
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【 第6代将軍 家宣 】家宣は家光の三男綱重の子として1662年( 寛文2年 )に生まれる。   将軍職を継ぎ{ 新井白石 }等を重用し政治の刷新をはかり、生類憐みの令を廃止するなど、「 正徳の治 」をなしとげたが、将軍職を僅か3年にして病に倒れ、1712年( 正徳2年 )、51歳の生涯を閉じた。
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【 第7代将軍 家継 】家継は家宣の第3子として、1709年( 宝永6年 )に生まれる。   父家宣の逝去と共に 僅か3歳で将軍職についた。   家継は元来病弱で、1716年( 正徳6 )8歳で亡くなられた。
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【 第9代将軍 家重 】8代吉宗の長子として、1711年( 正徳元年 )に生まれる。   成長するにつれ次第に病気がちになり、将軍になっても政務は重臣に任せた。   調査によれば、重度の歯ぎしりにより発音障害があった様だが、復元される容貌は歴代将軍の中でも最も美男子であったようで、遠くから拝謁するだけの大名にとっては気高く見えたという。  49歳で将軍職を譲り、1761年( 宝暦11年 )51歳で逝去。
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【 第12代将軍 家慶 】家斉の第2子として、1793年( 寛政5年 )に生まれる。  1837年( 天保8年 )第12代将軍となった。   家慶は「 天保の改革 」に着手するが、改革は失敗に終わり、幕府は没落の道を進むこととなる。   家慶はあわただしい世情の中、1853年( 嘉永6年 )に 61歳で亡くなった。
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【 第14代将軍 家茂 】家茂は11代家斉の子、斉順の長子として1846年( 弘化3年 )に生まれる。  安政5年、将軍家の養子となり14代将軍となった。   しかし、世継問題と日米通商問題で幕府は大きく揺れ、井伊直弼によって安政の大獄がはじまったが、事態収拾のために公武合体策をとり、和宮親子内親王( 静寛院 )を正室に迎えた。   尊皇攘夷派と幕府の対立が激化する中で、家茂は第1次長州征伐を指揮し、第2次長州征伐中、大阪城で病没した。 1866年( 慶長2年 )、享年21歳であった。
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【 静寛院和宮 】14代将軍家茂の正室。  「 静寛院和宮 」は「 仁孝天皇 」の第8皇女として 1846年( 弘化3年 )に生まれる。   和宮は「 嘉永4年 」6歳の時に有栖川宮と婚約が成立したが、婚儀間近になって前述した「 公武合体策」によって降嫁。時に15歳であった。   和宮は家茂死後、落飾して静寛院と称した。1877年( 明治10年 31歳で逝去。   お墓は「 青銅製 」で、夫の宝塔は「 石塔」で作られていました。
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【 側室等は 合祀されていました 】
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明日【 其の参 】へと続きます。

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