山ちゃんの徒然日記

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zoom RSS 上野歴史散歩 【 徳川慶喜の謹慎と葵の間、徳川家の霊廟 】

<<   作成日時 : 2015/03/02 06:00   >>

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2月8日  上野歴史散歩 【 輪王寺 と 旧本坊表門 通称黒門(重要文化財)】で一端終わりました「 上野歴史散歩 」でしたが、2月19日(木)に申し込んだ「 葵の間と霊廟 参拝 」に行ってきました
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早くアップすれば良かったのですが、パソコンの買い換え等で 報告が遅れました。   当日は13時40分に 根本中堂の前に集合。   我々以外には、遠く 鹿児島から来られた人や、江戸の歴史を勉強する会の人達で、大凡40名前後の方々がおられました
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ここから先は 写真撮影は出来ませんので 悪しからず。   尚この見学は、ご興味のある方は「 寛永寺のホームページ 」からも「 特別参拝 」として申し込むことが出来ます。   日頃は 原則「 非公開 」となっています。   お坊さんの話では「 土 ・ 日 」を中心に 月に5回程度だと言われていました。

約2時間程度の見学で、最初は 根本中堂に上がり、入り口で「 東日本災害の寄付 」を!  封筒には 寛永寺の説明書と「 般若心経 」の本が入っていました
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そしてお坊様( 説明は 毎回 お坊様は変わられるらしいですが、今日は 私に当たって良かったですね! と笑いを誘っておられました )より、寛永寺の歴史( 話の内容は、私がアップした「 上野歴史散歩 」と全く同じ順番と内容で 話しておられました )と、参加者で「 般若心経 」を唱えた後、本堂を見学です( パンフレットを参照してください )   説明の若いお坊さんは「 修行の一つ 」でもあるらしいです
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   そして 根本中堂 裏手に有る 別棟の「 葵の間 」と、最後「 徳川家霊廟 」の参拝へと続きます。

【 徳川慶喜公の恭順、謹慎 】
その前に「 徳川慶喜公 」が上野寛永寺に入られる迄の事を、簡単に書きました。  慶応3年( 1867年 10月15日、大政奉還をして「 将軍 」では無くなった慶喜公でしたが12月9日の「 王政復古 」の号令で「 除け者扱い 」となり、江戸では 新政府軍が狼藉を働くと共に幕府を挑発し、更に年末には江戸城に放火される等の事態が起こり、戦う事を決意します。翌年1月3日に「 鳥羽伏見の戦い 」が始まりますが、5日に新政府軍による「 錦の御旗 」が登場すると、慶喜公は「 朝廷に逆らうのは まずい! 朝敵には絶対なりたくない!」と言って幕府軍を放り出して江戸に帰ってしまいます。  そこは熱烈な「 尊王攘夷思想の水戸藩出身の慶喜公 」  江戸に戻ってからも幕府の重臣達は戦うよう説得を試みますが、2月12日に「 朝廷には一切逆らわない 」との意思表示として、上野寛永寺大慈院へ蟄居してしまうのでした。

【 葵の間 】
ここから、「 葵の間 」への見学です。  当時、ここは寛永寺の子院である大慈院だった所で、慶喜公は寛永寺で蟄居したと言われていますが、正確には寛永寺の子院である大慈院の葵の間、ということになります。  本堂を出て、廊下伝いに 奥の方に案内された「 葵の間 」は「 二間続き 」の「 こじんまり 」とした部屋で、ここで慶応4年(1868年 )2月12日から「 江戸城無血開城 」の4月11日迄の二ヶ月間「 慶喜公は蟄居謹慎 」されていました。現在は10畳と8畳の二間です。   元々は12.5畳と10畳だったらしいですが、一時別の場所に移築され、又ここに戻された際、柱や枠組みなど当時のものをそのまま使用したため、今の畳のサイズにすると10畳と8畳になったらしいです。   当日 部屋の間取りをスケッチし、イラストにしました
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移築されましたがまた元に戻って、現在の場所は慶喜公がおられた当時とほぼ同じ場所に建っているそうです。  将軍様が一時期とは言えど住んでおられたとは思えないほど質素なお部屋でした。   欄間や、壁・天井には「 葵の紋 」が入った紙が貼られていました。   小さいながらもゆっくり過ごす事が出来る雰囲気の部屋でした。  この時の慶喜公は、まだ32歳という若さです。   部屋の「 床の間 」には「 慶喜公 」の書や洋風の陣羽織、愛用していた調度品や写真なども飾ってあり、当時を偲ぶことが出来ました。   テレビで放送された場面をコピーしましたので、雰囲気が解ると思いますが
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そして「 徳川家の霊廟 」へと続きます。

【 徳川代々将軍が眠る場所 の見学 】
徳川家の菩提寺が「 上野寛永寺と芝増上寺 」にあること等は 私のブログ「上野 歴史散歩【 寛永寺】」をご覧下さい。    御霊廟の入り口には立派な門( 勅額門 ちょくがくもん )が
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現存する数少ない当時の建造物です。   その門の脇から「 霊廟 」へと進みます。  その前に建物が二つ建てられています。  左が「 徳川宗家 」、右が「 徳川三家 」の法要がここで営われます
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ここが都会かと思う静寂な地で、塀の外には「 山手線、京浜東北線 」等が走っています。    写真の右上が「 寛永寺 」です
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ひっそりとした森の中を進み、最初に案内して頂いたのが「 5代将軍 綱吉公( 犬公方 として有名ですね ) 」のお墓で、立派な葵の紋が入った青銅の「 御宝塔 」でした
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続いて「 8代将軍 吉宗公 」の「 御宝塔 」ですが、質素倹約をされていたので、「 石 」で出来ていました
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続いて「 13代将軍 家定公
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と天璋院篤姫様 」の「 御宝塔 」へ
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従来、将軍のお墓と正室のお墓が並んで建てられることは過去になかったそうですが、篤姫さまが亡くなったのは明治16年で、幕府の時の風習に固執する必要はなくなっていたということと、その少し前の明治10年に「 皇女 和宮様 」が亡くななり、こちらも増上寺の「 家茂公 」の横に眠っておられたので、それに習って隣に建てられたということです
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普通の墓石の形とは違って、宝塔の形をしていますが、戦後は 通常の墓石の形となっていました
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初代将軍「 徳川家康 」から14代将軍 徳川家茂の 間は、火葬されなかったらしいです。   埋葬方法も変わっていて、この宝塔の中に仏像が祀られており、その数メートル下に「 男性は衣冠束帯であぐら姿 」、「 女性の場合は十二単で正座した姿 」で棺の中に埋葬されているそうです。    昔は武家と公家は天と地ほど身分の差があり、亡くなって初めて公家の身分をもらうため、公家の姿で埋葬されたということです。   亡くなって「 安らぎの場 」として「 周りを石で囲って、極楽浄土 」を表しているらしいです。    家定公のお墓の脇には大好きだった「 柿の木 」が、篤姫様のお墓の脇にも大好きだった「 びわの木 」が植えられていました。  最後の将軍「 徳川慶喜公 」は、お聞きしたら「 神道 」だったので「 近くの 谷中霊園 」にありますとのことでした。

明日は「上野歴史散歩 」で、取り忘れた写真をアップし、このシリーズは終わりとなります。

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