山ちゃんの徒然日記

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zoom RSS 都指定旧跡 吉良邸跡( 本所松坂町公園 )

<<   作成日時 : 2014/07/11 06:00   >>

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JR総武線の両国と言えば、一に「 両国国技館 」が想い浮かびますが、他に「 江戸東京博物館 」があり、案外知られていないのが、松坂町公園内にある「 吉良邸跡 」です。  「 跡 」と書きましたが、どちらかと言えば「 記念広場 」という感じです。  両国から徒歩約5分程度、探さないと判らない程小さいですが、江戸東京博物館に来たので、寄ってみました。
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以下の説明文書は「 両国三丁目 吉良邸跡保存会 」の資料より抜粋しました。
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両国小学校の少し西側、旧本所松坂町、現在の墨田区両国三丁目に、「 なまこ壁 」に囲まれた「 吉良邸跡 」があります。  元禄15年( 1702年)12月14日、赤穂の四十七士が討入りしたところで、「 忠臣蔵 」で知られる所です。

吉良上野介の屋敷は、始め「 鍛治橋の屋敷 」を拝領していましたが、刃傷事件の後、赤穂浪士が吉良屋敷に討入るという噂があり、周囲の大名屋敷から苦情が出て、元禄14年8月御用地として幕府に召し上げられ、一時 子供の「 上杉弾正大弼 」の屋敷に身を寄せ、その後、同年九月、ここ「 本所松坂町 」の「 松平登之助の屋敷 」を拝領し移り住みました。  江戸城近くの屋敷から比べれば、赤穂浪士の討入りは、格段に容易になったと世間で噂されました。  この吉良家上屋敷は、広大で東西73間( (約132m )、南北34間( 約62m )、2550坪( 約8400u )と記されています。  吉良上野介がこの屋敷を拝領したのが、元禄14年( 1701年 )9月3日、義士の討入りがあって没収されたのが、元禄16年2月4日と、前後一年半に満たない短期間でした。  屋敷の表門は東側、今の両国小学校に面した方にあり、裏門は西側で、東・西・南の三方は周囲に長屋があり、北側に本田弥太郎、土屋主税の屋敷と地続きになっていました。  建坪は、母屋が388坪( 1280u )長屋は、426坪( 約1400u )でありました。

現在、「 吉良邸跡 」として残る本所松坂町公園は、29.5坪( 約98u )で、「 当時の 86分の1 」に過ぎまぜん。  これは昭和9年( 1934年 )、地元両国三丁目町会有志が発起人となって、邸内の「 吉良公御首級( みしるし )洗い井戸 」を中心に土地を購入し、同年3月に東京市に寄付し、貴重な旧跡が維持されました。  区への移管は、昭和25年( 1950年 )9月です。  公園をとり囲む高家の格式を表す「 なまこ壁 」と黒塗りの門が、僅かに、当時の模様を偲ばせています。

吉良邸跡の外観です
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吉良邸跡の内部です
入って正面に吉良上野介義央の像があります
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斬首後吉良の首を洗ったとされる「 みしるし洗い井戸 」です
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吉良を守った家臣二十士の碑です
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吉良上野介 追慕碑です
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松坂稲荷明神です
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毎年12月14日の討入りの日には、赤穂四十七士と吉良二十士の両家の供養を行う、「 義士祭 」.が両国連合町会主催で行われ、12月の第二または第三土曜日・日曜日には、両国三丁目松坂睦主催で、地元商店会を始め、100店余が出店する「 元禄市 」も開かれ大変な賑わいを見せています。  また「 吉良祭 」も催され、主君のために亡くなった吉良家家臣の冥福を祈っています。

吉良上野介義央公座像  園内にあります吉良上野介の座像制作に当っては、愛知県吉良町に吉良の菩提寺華蔵寺があり、上野介50歳の時、1690年頃自らが造らせた寄木造の座像が現存しています。  その姿型をそっくりに、また愛知県歴史編纂委員会の調査資料を参考に制作されています。
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吉良上野介義央( きらこうずけのすけよしひさ 1641年〜1702年 ) 吉良家は、清和天自王の後喬( こうえい : 何世代も後の子孫 )で、先祖は足利左馬頭義氏。  江戸城における一切の典礼を司る高家の地位を得たのは、祖父義弥の時です。  寛永18年生まれで三郎の幼名を名乗った義央は、13歳で将軍家綱に謁見しました。  後に、京への使者を任され、立派にその大任を果したことから、以後有職故実の家柄として重用されるようになりました。  賓客を応待することにかけては、義央はまさに天才だったようです。  忠臣蔵では悪役に仕立てられた上野介でしたが、領地の三河の吉良( 愛知県吉良町 )では評判が高く、町の人は今でも「 吉良様 」と呼んで敬っている善政の殿様でした。  新田の開拓や塩業の発展に尽力するなど、多くの事業で成功を収め、特に一昼夜で築いたといわれる長さ182mの堤があり、この治水工事で豊作が保証されたことから、今でも「 黄金堤 」と呼ばれています。  領地に滞在している間は「 赤い馬 」に乗って領内を巡回するのが日課としており、「 吉良の赤馬 」は名君吉良様と共に今でもその名を残しています。

愛知県 西尾市にある 吉良上野介義央の墓(華蔵寺( けぞうじ )
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結構訪れる方が多かったです。  帰りはさすが 「 相撲 」の街ですね。  時津風部屋が近くに有り、又飲食街は「 横綱横町 」の看板が掲げられ、「 ちゃんこ鍋 」の店が 結構ありました。
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